楫《まかぢ》榜《こ》ぎ出て見つつ来し御津の松原浪越しに見ゆ」(巻七・一一八五)があるから、大きい松原のあったことが分かる。
「いざ子ども」は、部下や年少の者等に対して親しんでいう言葉で、既に古事記応神巻に、「いざ児ども野蒜《ぬびる》つみに蒜《ひる》つみに」とあるし、万葉の、「いざ子ども大和へ早く白菅の真野《まぬ》の榛原《はりはら》手折りて行かむ」(巻三・二八〇)は、高市黒人の歌だから憶良の歌に前行している。「白露を取らば消ぬべしいざ子ども露に競《きほ》ひて萩の遊びせむ」(巻十・二一七三)もまたそうである。「いざ児ども香椎《かしひ》の潟《かた》に白妙の袖さへぬれて朝菜|採《つ》みてむ」(巻六・九五七)は旅人の歌で憶良のよりも後れている。つまり、旅人が憶良の影響を受けたのかも知れぬ。
 この歌は、環境が唐の国であるから、自然にその気持も一首に反映し、そういう点で規模の大きい歌だと謂うべきである。下の句の歌調は稍|弛《たる》んで弱いのが欠点で、これは他のところでも一言触れて置いたごとく、憶良は漢学に達していたため、却って日本語の伝統的な声調を理会することが出来なかったのかも知れない。一首としてはもう一歩緊密な度合の声調を要求しているのである。後年、天平八年の遣新羅国使等の作ったものの中に、「ぬばたまの夜明《よあか》しも船は榜《こ》ぎ行かな御津の浜松待ち恋ひぬらむ」(巻十五・三七二一)、「大伴の御津の泊《とまり》に船|泊《は》てて立田の山を何時か越え往《い》かむ」(同・三七二二)とあるのは、この憶良の歌の模倣である。なお、大伴坂上郎女《おおとものさかのうえのいらつめ》の歌に、「ひさかたの天の露霜置きにけり宅《いへ》なる人も待ち恋ひぬらむ」(巻四・六五一)というのがあり、これも憶良の歌の影響があるのかも知れぬ。斯くの如く憶良の歌は当時の人々に尊敬せられたのは、恐らく彼は漢学者であったのみならず、歌の方でもその学者であったからだとおもうが、そのあたりの歌は、一般に分かり好くなり、常識的に合理化した声調となったためとも解釈することが出来る。即ち憶良のこの歌の如きは、細かい顫動《せんどう》が足りない、而してたるんでいるところのあるものである。

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葦《あし》べ行く鴨の羽《は》がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ 〔巻一・六四〕 志貴
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