どこ》にあたるか未だ審でない。(新居《あらい》崎だろうという説もあり、また近時、今泉氏、ついで久松氏は御津《みと》附近の岬だろうと考証した。)「棚無し小舟」は、舟の左右の舷《げん》に渡した旁板《わきいた》(※[#「木+世」、第3水準1−85−56])を舟棚《ふなたな》というから、その舟棚の無い小さい舟をいう。
 一首の意は、今、参河の安礼《あれ》の埼《さき》のところを漕《こ》ぎめぐって行った、あの舟棚《ふなたな》の無い小さい舟は、いったい何処に泊《とま》るのか知らん、というのである。
 この歌は旅中の歌だから、他の旅の歌同様、寂しい気持と、家郷(妻)をおもう気持と相纏《あいまつわ》っているのであるが、この歌は客観的な写生をおろそかにしていない。そして、安礼の埼といい、棚無し小舟といい、きちんと出すものは出して、そして、「何処にか船泊すらむ」と感慨を漏らしているところにその特色がある。歌調は人麿ほど大きくなく、「すらむ」などといっても、人麿のものほど流動的ではない。結句の、「棚無し小舟」の如き、四三調の名詞止めのあたりは、すっきりと緊縮させる手法である。

           ○

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いざ子《こ》どもはやく日本《やまと》へ大伴《おほとも》の御津《みつ》の浜松《はままつ》待《ま》ち恋《こ》ひぬらむ 〔巻一・六三〕 山上憶良
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 山上憶良《やまのうえのおくら》が大唐《もろこし》にいたとき、本郷《ふるさと》(日本)を憶って作った歌である。憶良は文武天皇の大宝元年、遣唐大使|粟田真人《あわたのまひと》に少録として従い入唐し、慶雲元年秋七月に帰朝したから、この歌は帰りの出帆近いころに作ったもののようである。「大伴」は難波の辺一帯の地域の名で、もと大伴氏の領地であったからであろう。「大伴の高師の浜の松が根を」(巻一・六六)とあるのも、大伴の地にある高師の浜というのである。「御津」は難波の湊《みなと》のことである。そしてもっとくわしくいえば難波津よりも住吉津即ち堺であろうといわれている。
 一首の意は、さあ皆のものどもよ、早く日本へ帰ろう、大伴の御津の浜のあの松原も、吾々を待ちこがれているだろうから、というのである。やはり憶良の歌に、「大伴の御津の松原かき掃きて吾《われ》立ち待たむ早帰りませ」(巻五・八九五)があり、なお、「朝なぎに真
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