部此歌を評して、「一夜やどりたる曠野のあかつきがたのけしき、めに見ゆるやうなり。此かぎろひは旭日の余光をいへるなり」(緊要)といった。
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日並《ひなみし》の皇子《みこ》の尊《みこと》の馬《うま》並《な》めて御猟立《みかりた》たしし時《とき》は来向《きむか》ふ 〔巻一・四九〕 柿本人麿
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これも四首中の一つで、その最後のものである。一首は、いよいよ御猟をすべき日になった。御なつかしい日並皇子尊が御生前に群馬を走らせ御猟をなされたその時のように、いよいよ御猟をすべき時になった、というのである。
この歌も余り細部にこだわらずに、おおように歌っているが、ただの腕まかせでなく、丁寧にして真率な作である。総じて人麿の作は重厚で、軽薄の音調の無きを特色とするのは、応詔、献歌の場合が多いからというためのみでなく、どんな場合でもそうであるのを、後進の歌人は見のがしてはならない。
それから、結句の、「来向ふ」というようなものでも人麿造語の一つだと謂っていい。「今年経て来向ふ夏は」「春過ぎて夏来向へば」(巻十九・四一八三・四一八〇)等の家持の用例があるが、これは人麿の、「時は来向ふ」を学んだものである。人麿以後の万葉歌人等で人麿を学んだ者が一人二人にとどまらない。言葉を換えていえば人麿は万葉集に於て最もその真価を認められたものである。後世人麿を「歌聖」だの何のと騒いだが、上《うわ》の空の偶像礼拝に過ぎぬ。
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※[#「女+釆」、上−44−9]女《うねめ》の袖《そで》吹《ふ》きかへす明日香風《あすかかぜ》都《みやこ》を遠《とほ》みいたづらに吹く 〔巻一・五一〕 志貴皇子
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明日香《あすか》(飛鳥)の京から藤原《ふじわら》の京に遷《うつ》られた後、明日香のさびれたのを悲しんで、志貴皇子《しきのみこ》の詠まれた御歌である。遷都は持統八年十二月であるから、それ以後の御作だということになる。※[#「女+釆」、上−44−13]女《うねめ》(采女)は諸国から身分も好く(郡の少領以上)容貌も端正な妙齢女を選抜して宮中に仕えしめたものである。駿河※[#「女+釆」、上−44−14]女[#「※[#「女+釆」、上−44−14]女」に白丸傍点](巻四)駿河采
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