を心《こころ》に持《も》ちて安《やす》けくもなし 〔巻十五・三七二三〕 狭野茅上娘子
[#ここで字下げ終わり]
 中臣朝臣宅守《なかとみのあそみやかもり》が、罪を得て越前国に配流された時に、狭野茅上娘子《さぬのちがみのおとめ》の詠んだ歌である。娘子の伝は審《つまびら》かでないが、宅守と深く親んだことは是等一聯の歌を読めば分かる。目録に蔵部|女嬬《にょじゅ》とあるから、低い女官であっただろう。一首の意は、あなたがいよいよ山越をして行かれるのを、しじゅう心の中に持っておりまして、あきらめられず、不安でなりませぬ、という程の歌である。「君を心に持つ」は貴方をば心中に持つこと、心に抱き持つこと、恋しくて忘れられぬこと、あきらめられぬことというぐらいになるが、「君を心に持つ」と具体的に云ったので、親しさが却って増したようにおもわれる。「吾妹子《わぎもこ》に恋ふれにかあらむ沖に住む鴨《かも》の浮宿《うきね》の安けくもなし(なき)」(巻十一・二八〇六)、「今は吾は死なむよ吾妹逢はずして念《おも》ひわたれば安けくもなし」(巻十二・二八六九)等、用例は可なりある。

           ○

[#ここから5字下げ]
君《きみ》が行《ゆ》く道《みち》の長路《ながて》を繰《く》り畳《たた》ね焼《や》き亡《ほろ》ぼさむ天《あめ》の火《ひ》もがも 〔巻十五・三七二四〕 狭野茅上娘子
[#ここで字下げ終わり]
 同じく続く歌で、あなたが、越前の方においでになる遠い路をば、手繰《たぐ》りよせてそれを畳《たた》んで、焼いてしまう天火《てんか》でもあればいい。そうしたならあなたを引き戻《もど》すことが出来ましょう、という程の歌で、強く誇張していうところに女性らしい語気と情味とが存じている。娘子《おとめ》は古歌などをも学んだ形跡があり、文芸にも興味を持つ才女であったらしいから、「天の火もがも」などという語も比較的自然に口より発したのかも知れない。そして、「焼き亡ぼさむ天の火もがも」という句は、これだけを抽出してもなかなか好い句である。天火《てんか》は支那では、劫火《ごうか》などと似て、思いがけぬところに起る火のことを云って居る。史記孝景本記に、「三年正月乙巳天火[#「天火」に白丸傍点]燔[#二]※[#「各+隹」、第3水準1−93−65]陽東宮大殿城室[#一]」とあり、易林に「天火[#「天火」に白丸傍
前へ 次へ
全266ページ中233ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング