際《そのきは》もかなし、別《わかれ》て末に思はむも悲しといふ也」(略解)とあるが、却《かえ》って男の歌として解し易《やす》いようでもある。併しこういうのになると、男でも女でも、その境界を超えたひびきがあり、無論作者がどういう者だろうかなどという個人を絶してしまっている。

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上毛野《かみつけぬ》安蘇《あそ》の真麻《まそ》むら掻《か》き抱《むだ》き寝《ぬ》れど飽《あ》かぬを何《あ》どか吾《あ》がせむ 〔巻十四・三四〇四〕 東歌
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 上野国歌。「安蘇」は下野《しもつけ》安蘇郡であろうが、もとは上野《こうずけ》に入っていたと見える。この巻に、「下毛野《しもつけぬ》安素《あそ》の河原よ」(三四二五)とあるのは隣接地で下野にもかかっていたことが分かる。「真麻《まそ》むら」は、真麻《まあさ》の群《むれ》で、それを刈ったものを抱きかかえて運ぶから、「抱《むだ》き」に続く序詞とした。一首の意は、真麻むらの麻の束を抱《だ》きかかえるように(序詞)可哀いお前を抱いて寝たが、飽きるということがない、どうしたらいいのか、というのである。これも農民のあいだに伝わったものであろうが、序詞も無理でなく、実際生活を暗指《あんじ》しつつ恋愛情緒《れんあいじょうしょ》を具体的にいって、少しもみだらな感を伴《ともな》わず、嫉《ねた》ましい感をも伴わないのは、全体が邪気《じゃき》なく快《こころよ》いものだからであろう。それにはアドカ・アガセムという訛《なまり》も手伝っているらしく思われるけれども、単にそれのみでなく、「何《あど》か吾がせむ」という切実な句が此歌の価値を高めているからであろう。この句は万葉に「あどせろとかもあやに愛《かな》しき」(巻十四・三四六五)の例があるのみで、ほかは、「家に行きて如何にか吾がせむ[#「如何にか吾がせむ」に白丸傍点]枕づく嬬屋《つまや》さぶしく思ほゆべしも」(巻五・七九五)、「斯くばかり面影のみに思ほえばいかにかもせむ[#「いかにかもせむ」に白丸傍点]人目繁くて」(巻四・七五二)、「今のごと恋しく君が思ほえばいかにかもせむ[#「いかにかもせむ」に白丸傍点]為《す》るすべのなさ」(巻十七・三九二八)等の例があるのみである。東歌の中でも私はこの歌を愛している。

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