ゑに」の「ゆゑに」は「人妻だからと云《い》って」というのでなく、「人妻に由《よ》って恋う」と、「恋う」の原因をあらわすのである。「人妻ゆゑにわれ恋ひにけり」、「ものもひ痩《や》せぬ人の子ゆゑに」、「わがゆゑにいたくなわびそ」等、これらの例万葉に甚《はなは》だ多い。恋人を花に譬《たと》えたのは、「つつじ花にほえ少女、桜花さかえをとめ」(巻十三・三三〇九)等がある。
この御歌の方が、額田王の歌に比して、直接で且つ強い。これはやがて女性と男性との感情表出の差別ということにもなるとおもうが、恋人をば、高貴で鮮麗な紫の色にたぐえたりしながら、然《し》かもこれだけの複雑な御心持を、直接に力づよく表わし得たのは驚くべきである。そしてその根本は心の集注と純粋ということに帰着するであろうか。自分はこれを万葉集中の傑作の一つに評価している。集中、「憎し」という語のあるものは、「憎くもあらめ」の例があり、「憎《にく》くあらなくに」、「憎《にく》からなくに」の例もある。この歌に、「憎」の語と、「恋」の語と二つ入っているのも顧慮してよく、毫も調和を破っていないのは、憎い(嫌い)ということと、恋うということが調和を破っていないがためである。この贈答歌はどういう形式でなされたものか不明であるが、恋愛贈答歌には縦《たと》い切実なものでも、底に甘美なものを蔵している。ゆとりの遊びを蔵しているのは止むことを得ない。なお、巻十二(二九〇九)に、「おほろかに吾し思はば人妻にありちふ妹に恋ひつつあらめや」という歌があって類似の歌として味うことが出来る。
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河上《かはかみ》の五百箇《ゆつ》磐群《いはむら》に草《くさ》むさず常《つね》にもがもな常処女《とこをとめ》にて 〔巻一・二二〕 吹黄刀自
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十市皇女《とおちのひめみこ》(御父大海人皇子、御母額田王)が伊勢神宮に参拝せられたとき、皇女に従った吹黄刀自《ふきのとじ》が波多横山《はたよこやま》の巌《いわお》を見て詠んだ歌である。波多《はた》の地は詳《つまびらか》でないが、伊勢|壱志《いちし》郡八太村の辺だろうと云われている。
一首の意は、この河の辺《ほとり》の多くの巌には少しも草の生えることがなく、綺麗《きれい》で滑《なめら》かである。そのようにわが皇女の君も永久に美しく容色のお変
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