》の形《すがた》」という語は、朝別れる時の夫の事をいうのだが、簡潔に斯ういったのは古語の好い点である。「今日のあひだ」という語も好い語で、「梅の花折りてかざせる諸人《もろびと》は今日の間《あひだ》は楽しくあるべし」(巻五・八三二)、「真袖もち床うち払ひ君待つと居りし間に月かたぶきぬ」(巻十一・二六六七)、「行方《ゆくへ》無みこもれる小沼《をぬ》の下思《したもひ》に吾ぞもの思ふ此の頃の間」(巻十二・三〇二二)等の例がある。なお、「朝戸出《あさとで》の君が光儀《すがた》をよく見ずて長き春日を恋ひや暮らさむ」(巻十・一九二五)があって、外形は似ているが此歌に及ばないのは、此歌は未《いま》だ個的なところが失せないからであろうか。

           ○

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愛《うつく》しみ我《わ》が念《も》ふ妹《いも》を人《ひと》みなの行《ゆ》く如《ごと》見《み》めや手《て》に纏《ま》かずして 〔巻十二・二八四三〕 柿本人麿歌集
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 おれの恋しくおもう女が、今|彼方《かなた》を歩いているが、それをば普通並の女と一しょにして平然と見て居られようか、手にも纏くことなしに、というのである。あの女を手にも纏かずに居るのはいかにも辛《つら》いが、人目が多いので致し方が無いということが含まっている。これだけの意味だが、こう一首に為上《しあ》げられて見ると、まことに感に乗って来て棄てがたいものである。「人皆の行くごと見めや」の句は強くて情味を湛《たた》え、情熱があってもそれを抑《おさ》えて、傍観しているような趣が、この歌をして平板から脱却せしめている。無論民謡風ではあるが、未だ語気が求心的である。

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山河《やまがは》の水陰《みづかげ》に生《お》ふる山草《やますげ》の止《や》まずも妹《いも》がおもほゆるかも 〔巻十二・二八六二〕 柿本人麿歌集
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 上句は序詞で、中味は、「やまずも妹がおもほゆるかも」だけの歌で別に珍らしいものではない。また、「山菅のやまずて君を」、「山菅のやまずや恋ひむ」等の如く、「山菅の・やまず」と続けたのも別して珍らしくはない。ただ、山中を流れている水陰《みずかげ》にながく靡《なび》くようにして群生している菅《すげ》という実際の光景、特に、「水陰」という語に心を
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