歌として優るかを判断すべきである。
○
[#ここから5字下げ]
三輪山《みわやま》をしかも隠《かく》すか雲《くも》だにも情《こころ》あらなむ隠《かく》さふべしや 〔巻一・一八〕 額田王
[#ここで字下げ終わり]
この歌は作者未定である。併し、「額田王下[#二]近江[#一]時作歌、井戸王即和歌」という題詞があるので、額田王作として解することにする。「味酒《うまざけ》三輪の山、青丹《あをに》よし奈良の山の、山のまにい隠るまで、道の隈《くま》い積《つも》るまでに、委《つばら》にも見つつ行かむを、しばしばも見放《みさ》けむ山を、心なく雲の、隠《かく》さふべしや」という長歌の反歌である。「しかも」は、そのように、そんなにの意。
一首の意は、三輪山をばもっと見たいのだが、雲が隠してしまった。そんなにも隠すのか、縦《たと》い雲でも情《なさけ》があってくれよ。こんなに隠すという法がないではないか、というのである。
「あらなむ」は将然言《しょうぜんげん》につく願望のナムであるが、山田博士は原文の「南畝」をナモと訓み、「情《こころ》アラナモ」とした。これは古形で同じ意味になるが、類聚古集に「南武」とあるので、暫《しばら》く「情アラナム」に従って置いた。その方が、結句の響に調和するとおもったからである。結句の「隠さふべしや」の「や」は強い反語で、「隠すべきであるか、決して隠すべきでは無い」ということになる。長歌の結末にもある句だが、それを短歌の結句にも繰返して居り、情感がこの結句に集注しているのである。この作者が抒情詩人として優れている点がこの一句にもあらわれており、天然の現象に、恰《あたか》も生きた人間にむかって物言うごとき態度に出て、毫《ごう》も厭味《いやみ》を感じないのは、直接であからさまで、擬人などという意図を余り意識しないからである。これを試《こころみ》に、在原業平《ありわらのなりひら》の、「飽かなくにまだきも月の隠るるか山の端《は》逃げて入れずもあらなむ」(古今・雑上)などと比較するに及んで、更にその特色が瞭然《りょうぜん》として来るのである。
カクサフはカクスをハ行四段に活用せしめたもので、時間的経過をあらわすこと、チル、チラフと同じい。「奥つ藻を隠さふ[#「隠さふ」に白丸傍点]なみの五百重浪」(巻十一・二四三七)、「隠さはぬ[#「隠さはぬ」
前へ
次へ
全266ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング