二〇〇)、「飫宇海《おうのうみ》の河原の千鳥汝が鳴けばわが佐保河《さほかは》のおもほゆらくに」(巻三・三七一)の如きがあって、共通して使われている。行幸に供奉《ぐぶ》し、赤人は歌人としての意識を以てこの歌を作ったのだろうが、必ずしも「宮廷歌人」などという意図が目立たずに、自由に個人としての好みを吐露《とろ》しているようである。一般が自由でこだわりのなかった聖世を反映していると謂っていい。また、「宮廷歌人」などと云っても、現代の人々の持っている「宮廷歌人」の西洋まがいの概念と違った気持で供奉《ぐぶ》したことをも知らねばならぬのである。
○
[#ここから5字下げ]
若《わか》の浦《うら》に潮《しほ》満《み》ち来《く》れば潟《かた》を無《な》み葦辺《あしべ》をさして鶴《たづ》鳴《な》き渡《わた》る 〔巻六・九一九〕 山部赤人
[#ここで字下げ終わり]
赤人の歌続き。「若の浦」は今は和歌の浦と書くが、弱浜《わかはま》とも書いた(続紀)。また聖武天皇のこの行幸の時、明光の浦と命名せられた記事がある。「潟」は干潟《ひがた》の意である。
一首の意は、若の浦にだんだん潮が満ちて来て、干潟が無くなるから、干潟に集まっていた沢山の鶴が、葦の生えて居る陸の方に飛んで行く、というのである。
やはり此歌も清潔な感じのする赤人一流のもので、「葦べをさして鶴《たづ》鳴きわたる」は写象鮮明で旨いものである。また声調も流動的で、作者の気乗していることも想像するに難くはない。「潟をなみ」は、赤人の要求であっただろうが、微かな「理」が潜んでいて、もっと古いところの歌ならこうは云わない。例えば、既出の高市黒人作、「桜田へ鶴鳴きわたる年魚市潟《あゆちがた》潮干《しほひ》にけらし鶴鳴きわたる」(巻三・二七一)の如きである。つまり「潟をなみ」の第三句が弱いのである。これはもはや時代的の差違であろう。この歌は、古来有名で、叙景歌の極地とも云われ、遂には男波・女波・片男波の聯想にまで拡大して通俗化せられたが、そういう俗説を洗い去って見て、依然として後にのこる歌である。万葉集を通読して来て、注意すべき歌に標《しるし》をつけるとしたら、従来の評判などを全く知らずにいるとしても、標のつかる性質のものである。一般にいってもそういういいところが赤人の歌に存じているのである。ただこの歌に先行した
前へ
次へ
全266ページ中127ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング