ら》にいた女郎に贈ったものである。「今しらす久邇《くに》の京《みやこ》に妹《いも》に逢はず久しくなりぬ行きてはや見な」(巻四・七六八)というのもある。この歌は、もっと上代の歌のように、蒼古《そうこ》というわけには行かぬが、歌調が伸々《のびのび》として極めて順直なものである。家持の歌の優れた一面を代表する一つであろうか。
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巻第五
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世《よ》の中《なか》は空《むな》しきものと知《し》る時《とき》しいよよますます悲《かな》しかりけり 〔巻五・七九三〕 大伴旅人
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大伴旅人《おおとものたびと》は、太宰府に於て、妻|大伴郎女《おおとものいらつめ》を亡くした(神亀五年)。その時京師から弔問が来たのに報《こた》えた歌である。なおこの歌には、「禍故|重畳《ちようでふ》し、凶問|累《しきり》に集る。永く崩心の悲みを懐《いだ》き、独り断腸の泣《なみだ》を流す。但し両君の大助に依りて、傾命|纔《わづか》に継ぐ耳《のみ》。筆言を尽さず、古今の歎く所なり」という詞書が附いている。傾命は老齢のこと。両君は審《つまびら》かでない。
一首の意は、世の中が皆空・無常のものだということを、現実に知ったので、今迄よりもますます悲しい、というのである。
「知る時し」は、知る時に、知った時にという事であるが、今迄は経文により、説教により、万事空寂無常のことは聞及んでいたが、今|現《げん》に、自分の身に直接に、眼《ま》のあたりに、今の言葉なら、体験したという程のことを、「知る」と云ったのである。同じ用例には、「うつせみの世は常無《つねな》しと知るものを」(巻三・四六五。家持)、「世の中を常無きものと今ぞ知る」(巻六・一〇四五。不詳)、「世の中の常無きことは知るらむを」(巻十九・四二一六。家持)等がある。そこで「いよよますます」という語に続くのである。この歌には、仏教が入っているので、「空しきものと知る」というだけでも、当時にあっては、深い道理と情感を伴う語感を持っていただろう。一口にいえば思想的にも新しく且つ深かったものだろう。それが年月によって繰返されているうち、その新鮮の色があせつつ来たのであるが、旅人のこの歌頃までは、いまだ諳記《あんき》してものを云っているようなところのないのを鑑賞者は見免《みのが》しては
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