った。この歌に比べると、「秋萩を散り過ぎぬべみ手折り持ち見れども不楽《さぶ》し君にしあらねば」(巻十・二二九〇)、「み冬つぎ春は来れど梅の花君にしあらねば折る人もなし」(巻十七・三九〇一)などは、調子が弱くなって、もはや弛《たる》んでいる。また、「うち日さす宮道《みやぢ》を人は満ちゆけど吾が念《おも》ふ公《きみ》はただ一人のみ」(巻十一・二三八二)という類似の歌もあるが、この方はもっと分かりよい。
この次に、「淡海路《あふみぢ》の鳥籠《とこ》の山なるいさや川|日《け》の此頃《このごろ》は恋ひつつもあらむ」(巻四・四八七)という歌があり、上半は序詞だが、やはり古調で佳い歌である。そしてこの方は男性の歌のような語気だから、或はこれが御製で、「山の端に」の歌は天皇にさしあげた女性の歌ででもあろうか。
以上、「あぢむら騒ぎ」までを序詞として解釈したが、「夏麻《なつそ》引く海上潟《うなかみがた》の沖つ洲に鳥はすだけど君は音《おと》もせず」(巻七・一一七六)、「吾が門の榎《え》の実《み》もり喫《は》む百千鳥千鳥は来れど君ぞ来まさぬ」(巻十六・三八七二)というのがあって、これは実際鳥の群集する趣だから、これを標準とせば、「あぢむら騒ぎ」も実景としてもいいかも知れぬが、この巻七の歌も巻十六の歌もよく味うと、やはり海鳥を写象として、その聯想によって「すだけど」、或は「来れど」と云っているのだということが分かり、属目光景では無いのである。
この御製を、女性らしい御語気だと云ったが、代匠記では男の歌とし、毛詩|鄭風《ていふう》の、出[#(バ)][#二]其東門[#(ヲ)][#一]、有[#レ]女如[#(シ)][#レ]雲、雖[#二]則如[#(シト)][#一レ]雲、匪[#(ズ)][#二]我思[#(ノ)]存[#(スルニ)][#一]を引いている。即ち「君」を女と解している。攷證でも、「この御製は、女をおぼしめして詠せ給ふにて」、「吾は君とは違ひて、誘《サソ》ふ人もあらざれば、いとさびしとのたまふにて、君は定めて誘ふ人もあまたありぬべしとの御心を、味村の飛ゆくさまをみそなはして、つゞけ給へる也」と云っている。どちらが本当か、後賢の判断を俟《ま》っている。
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君《きみ》待《ま》つと吾《わ》が恋《こ》ひ居《を》れば吾《わ》が屋戸《やど》の簾《すだれ
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