と》めている。そして人麿はどんな対象に逢着しても熱心に真心を籠めて作歌し、自分のために作っても依頼されて作っても、そういうことは殆ど一如にして実行した如くである。

           ○

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われも見《み》つ人《ひと》にも告げむ葛飾《かつしか》の真間《まま》の手児名《てこな》が奥津城処《おくつきどころ》 〔巻三・四二三〕 山部赤人
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 山部赤人が下総葛飾の真間娘子《ままのおとめ》の墓を見て詠んだ長歌の反歌である。手児名《てこな》は処女《おとめ》の義だといわれている。「手児」(巻十四・三三九八・三四八五)の如く、親の手児という意で、それに親しみの「な」の添《そ》わったものと云われている。真間に美しい処女《おとめ》がいて、多くの男から求婚されたため、入水した伝説をいうのである。伝説地に来ったという旅情のみでなく、評判の伝説娘子に赤人が深い同情を持って詠んでいる。併し徒《いたず》らに激しい感動語を以てせずに、淡々といい放って赤人一流の感懐を表現し了せている。それが次にある、「葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻苅りけむ手児名しおもほゆ」(巻三・四三三)の如きになると、余り淡々とし過ぎているが、「われも見つ人にも告げむ」という簡潔な表現になると赤人の真価があらわれて来る。後になって家持が、「万代の語《かたら》ひ草と、未だ見ぬ人にも告げむ」(巻十七・四〇〇〇)云々と云って、この句を学んで居る。赤人は富士山をも詠んだこと既に云った如くだから、赤人は東国まで旅したことが分かる。

           ○

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吾妹子《わぎもこ》が見《み》し鞆《とも》の浦《うら》の室《むろ》の木《き》は常世《とこよ》にあれど見《み》し人《ひと》ぞ亡《な》き 〔巻三・四四六〕 大伴旅人
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 太宰帥《だざいのそち》大伴旅人が、天平二年冬十二月、大納言になったので帰京途上、備後《びんご》鞆の浦を過ぎて詠んだ三首中の一首である。「室の木」は松杉科の常緑喬木、杜松(榁)であろう。当時鞆の浦には榁《むろ》の大樹があって人目を引いたものと見える。一首の意は、太宰府に赴任する時には、妻も一しょに見た鞆の浦の室《むろ》の木《き》は、今も少しも変りはないが、このたび帰京しようとして此処を通る時には妻はもう此世にいない、というので
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