接するように感ぜられる。即ち、一首の声調が如何にもごつごつしていて、「もののふの八十《やそ》うぢがはの網代木《あじろぎ》に」というような伸々《のびのび》した調子には行かない。一首の中に、三つも「らむ」を使って居りながら、訥々《とつとつ》としていて流動の響に乏しい。「わが背子は何処ゆくらむ沖つ藻《も》の名張《なばり》の山をけふか越ゆらむ」(巻一・四三)という「らむ」の使いざまとも違うし、結句に、「吾を待つらむぞ」と云っても、人麿の「妹見つらむか」とも違うのである。そういう風でありながら、何処かに実質的なところがあり、軽薄平俗になってしまわないのが其特色である。またそういう滑《なめら》かでない歌調が、当時の人にも却って新しく響いたのかも知れない。憶良は、大正昭和の歌壇に生活の歌というものが唱えられた時、いち早くその代表的歌人のごとくに取扱われたが、そのとおり憶良の歌には人間的な中味があって、憶良の価値を重からしめて居る。
 諧謔《かいぎゃく》微笑のうちにあらわるる実生活的直接性のある此歌だけを見てもその特色がよく分かるのである。この一首は憶良の短歌ではやはり傑作と謂うべきであろう。憶良は歌を好み勉強もしたことは類聚歌林《るいじゅうかりん》を編んだのを見ても分かる。併し大体として、日本語の古来の声調に熟し得なかったのは、漢学素養のために乱されたのかも知れない。巻一(六三)の、「いざ子どもはやく大和《やまと》へ大伴《おほとも》の御津《みつ》の浜松待ち恋ひぬらむ」という歌は有名だけれども、調べが何処か弱くて物足りない。これは寧ろ、黒人の、「いざ児ども大和へ早く白菅《しらすげ》の真野《まぬ》の榛原《はりはら》手折《たを》りて行かむ」(巻三・二八〇)の方が優《まさ》っているのではなかろうか。そういう具合であるが、憶良にはまた憶良的なものがあるから、後出の歌に就いて一言費す筈である。
 大伴家持の歌に、「春花のうつろふまでに相見ねば月日|数《よ》みつつ妹待つらむぞ」(巻十七・三九八二)というのがある。此は天平十九年三月、恋緒を述ぶる歌という長短歌の中の一首であるが、結句の「妹待つらむぞ」はこの憶良の歌の模倣である。なお「ぬばたまの夜渡る月を幾夜|経《ふ》と数《よ》みつつ妹《いも》は我待つらむぞ[#「我待つらむぞ」に白丸傍点]」(巻十八・四〇七二)、「居りあかし今宵は飲まむほととぎす
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