、「熟田津に」を「に向って」と解し、「此歌は備前の大伯《オホク》より伊与の熟田津へ渡らせ給ふをりによめるにこそ」と云ったが、それは誤であった。併し、「に」に方嚮《ほうこう》(到着地)を示す用例は無いかというに、やはり用例はあるので、「粟島《あはしま》に漕ぎ渡らむと思へども明石《あかし》の門浪《となみ》いまだ騒げり」(巻七・一二〇七)。この歌の「に」は方嚮を示している。
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紀《き》の国《くに》の山《やま》越《こ》えて行《ゆ》け吾《わ》が背子《せこ》がい立《た》たせりけむ厳橿《いつかし》がもと 〔巻一・九〕 額田王
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紀の国の温泉に行幸(斉明)の時、額田王の詠んだ歌である。原文は、「莫囂円隣之、大相七兄爪謁気、吾瀬子之《ワガセコガ》、射立為兼《イタタセリケム》、五可新何本《イツカシガモト》」というので、上半の訓がむずかしいため、種々の訓があって一定しない。契沖が、「此歌ノ書ヤウ難儀ニテ心得ガタシ」と歎じたほどで、此儘では訓は殆ど不可能だと謂《い》っていい。そこで評釈する時に、一首として味うことが出来ないから回避するのであるが、私は、下半の、「吾が背子がい立たせりけむ厳橿《いつかし》が本《もと》」に執着があるので、この歌を選んで仮りに真淵の訓に従って置いた。下半の訓は契沖の訓(代匠記)であるが、古義では第四句を、「い立たしけむ」と六音に訓み、それに従う学者が多い。厳橿《いつかし》は厳《おごそ》かな橿の樹で、神のいます橿の森をいったものであろう。その樹の下に嘗《かつ》て私の恋しいお方が立っておいでになった、という追憶であろう。或は相手に送った歌なら、「あなたが嘗てお立ちなされたとうかがいましたその橿の樹の下に居ります」という意になるだろう。この句は厳かな気持を起させるもので、単に句として抽出するなら万葉集中第一流の句の一つと謂っていい。書紀垂仁巻に、天皇以[#二]倭姫命[#一]為[#二]御杖[#一]貢[#二]奉於天照大神[#一]是以倭姫命以[#二]天照大神[#(ヲ)][#一]鎮[#二]坐磯城[#(ノ)]厳橿之本[#一]とあり、古事記雄略巻に、美母呂能《ミモロノ》、伊都加斯賀母登《イツカシガモト》、加斯賀母登《カシガモト》、由由斯伎加母《ユユシキカモ》、加志波良袁登売《カシハラヲトメ》、云々とある如
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