から遊離した上《うわ》の空《そら》の言辞ということになるのである。或人はこの歌を空虚な歌として軽蔑するが、自分はやはり人麿一代の傑作の一つとして尊敬するものである。

           ○

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苦《くる》しくも降《ふ》り来《く》る雨《あめ》か神《みわ》が埼《さき》狭野《さぬ》のわたりに家《いへ》もあらなくに 〔巻三・二六五〕 長奥麻呂
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 長忌寸奥麻呂《ながのいみきおきまろ》(意吉麻呂)の歌である。神が埼(三輪崎)は紀伊国東|牟婁《むろ》郡の海岸にあり、狭野《さぬ》(佐野)はその近く西南方で、今はともに新宮市に編入されている。「わたり」は渡し場である。第二句で、「降り来る雨か」と詠歎して、愬《うった》えるような響を持たせたのにこの歌の中心があるだろう。そして心が順直に表わされ、無理なく受納れられるので、古来万葉の秀歌として評価されたし、「駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ」という如き、藤原定家の本歌取の歌もあるくらいである。それだけ感情が通常だとも謂えるが、奥麻呂は実地に旅行しているのでこれだけの歌を作り得た。定家の空想的模倣歌などと比較すべき性質のものではない。弁基《べんき》(春日蔵首老《かすがのくらびとおゆ》)の歌に、「まつち山ゆふ越え行きていほさきの角太河原《すみたかはら》にひとりかも寝む」(巻三・二九八)というのがあるが、この頃の人々は、自由に作っていて感のとおっているのは気持が好い。
 近時土屋文明氏は、「神之埼」をカミノサキと訓む説を肯定し、また紀伊新宮附近とするは万葉時代交通路の推定から不自然のようにおもわれることを指摘し、和泉《いずみ》日根郡の神前を以て擬するに至った。また佐野も近接した土地で共に万葉時代から存在した地名と推定することも出来、和泉ならば紀伊行幸の経路であるから、従駕の作者が詠じたものと見ることが出来るというのである。

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淡海《あふみ》の海《うみ》夕浪《ゆふなみ》千鳥《ちどり》汝《な》が鳴《な》けば心《こころ》もしぬにいにしへ思《おも》ほゆ 〔巻三・二六六〕 柿本人麿
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 柿本人麿の歌であるが、巻一の近江旧都回顧の時と同時の作か奈何《どう》か不明である。「夕浪千鳥」は、夕べの浪の上に立ちさわぐ千
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