しき稲見《いなみ》の海の奥つ浪|千重《ちへ》に隠《かく》りぬ大和島根は」(同・三〇三)、「大王《おほきみ》の遠《とほ》のみかどと在り通ふ島門《しまと》を見れば神代し念《おも》ほゆ」(同・三〇四)があり、共に佳作であるが、人麿の歌が余り多くなるので、従属的に此処《ここ》に記すこととした。新羅《しらぎ》使等が船上で吟誦した古歌として、「天離《あまざか》るひなの長道《ながぢ》を恋ひ来れば明石の門より家の辺《あたり》見ゆ」(巻十五・三六〇八)があるが、此は人麿の歌が伝わったので、人麿の歌を分かり好く変化せしめている。

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矢釣山《やつりやま》木立《こだち》も見《み》えず降《ふ》り乱《みだ》る雪《ゆき》に驟《うくつ》く朝《あした》たぬしも 〔巻三・二六二〕 柿本人麿
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 柿本人麿が新田部《にいたべ》皇子に献《たてまつ》った長歌の反歌で、長歌は、「やすみしし吾|大王《おほきみ》、高|耀《ひか》る日《ひ》の皇子《みこ》、敷《し》きいます大殿《おほとの》の上に、ひさかたの天伝《あまづた》ひ来る、雪じもの往きかよひつつ、いや常世《とこよ》まで」という簡浄なものである。この短歌の下の句の原文は、「落乱、雪驪、朝楽毛」で、古来種々の訓があった。私が人麿の歌を評釈した時には、新訓(佐佐木博士)の、「雪に驪《こま》うつ朝《あした》たぬしも」に従ったが、今回は、故生田耕一氏の「雪に驟《うくつ》く朝楽しも」に従った。ウクツクとは、新撰字鏡に、驟也、宇久豆久《ウクヅク》とあって、馬を威勢よく走らせることである。矢釣山は、高市郡八釣村がある、そこであろう。この歌は、大体そう訓んで味うと、なかなかよい歌で棄てがたいのである。「矢釣山木立も見えず降りみだる」あたりの歌調は、人麿でなければ出来ないものを持っている。結句の訓も種々で考《こう》のマヰリクラクモに従う学者も多い。山田博士は、「雪にうくづきまゐり来らくも」と訓み、「古は初雪の見参といふ事ありて、初雪に限らず、大雪には早朝におくれず祗候《しこう》すべき儀ありしなり」(講義)と云っている。なお吉田増蔵氏は、「雪に馬|並《な》めまゐり来らくも」と訓んだ。また、「乱」をマガフ、サワグ等とも訓んでいる。これは、四段の自動詞に活用しないという結論に本《もと》づく根拠もあるのだが、私は今
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