である。そして人麿はこういうところを歌うのに決して軽妙には歌っていない。飽くまで実感に即して執拗《しつよう》に歌っているから軽妙に滑《すべ》って行かないのである。
第三句ミダレドモは古点ミダルトモであったのを仙覚はミダレドモと訓んだ。それを賀茂真淵はサワゲドモと訓み、橘守部はサヤゲドモと訓み、近時この訓は有力となったし、「ササ[#「ササ」に白丸傍点]の葉はみ山もサヤ[#「サヤ」に白丸傍点]にサヤ[#「サヤ」に白丸傍点]げども」とサ音で調子を取っているのだと解釈しているが、これは寧《むし》ろ、「ササ[#「ササ」に白丸傍点]の葉はミヤマ[#「ミヤマ」に二重丸傍点]もサヤ[#「サヤ」に白丸傍点]にミダレ[#「ミダレ」に二重丸傍点]ども」のようにサ音とミ音と両方で調子を取っているのだと解釈する方が精《くわ》しいのである。サヤゲドモではサの音が多過ぎて軽くなり過ぎる。次に、万葉には四段に活かせたミダルの例はなく、あっても他動詞だから応用が出来ないと論ずる学者(沢瀉博士)がいて、殆ど定説にならんとしつつあるが、既にミダリニの副詞があり、それが自動詞的に使われている以上(日本書紀に濫・妄・浪等を当てている)は、四段に活用した証拠となり、古訓法華経の、「不[#二]妄《ミダリニ》開示[#一]」、古訓老子の、「不[#レ]知[#レ]常|妄《ミダリニ》作[#(シテ)]凶[#(ナリ)]」等をば、参考とすることが出来る。即ち万葉時代の人々が其等をミダリニと訓んでいただろう。そのほかミダリガハシ、ミダリゴト、ミダリゴコチ、ミダリアシ等の用例が古くあるのである。また自動詞他動詞の区別は絶対的でない以上、四段のミダルは平安朝以後のように他動詞に限られた一種の約束を人麿時代迄|溯《さかのぼ》らせることは無理である。また、此の場合の笹の葉の状態は聴覚よりも寧ろ聴覚を伴う視覚に重きを置くべきであるから、それならばミダレドモと訓む方がよいのである。若しどうしても四段に活用せしめることが出来ないと一歩を譲って、下二段に活用せしめるとしたら、古訓どおりにミダルトモと訓んでも毫《ごう》も鑑賞に差支《さしつかえ》はなく、前にあった人麿の、「ささなみの志賀の大わだヨドムトモ」(巻一・三一)の歌の場合と同じく、現在の光景でもトモと用い得るのである。声調の上からいえばミダルトモでもサヤゲドモよりも優《ま》さっている。併
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