心中に邪魔をするものがあつていづれとも決定しかねて二たび踵を返した。T君は途々《みちみち》にも、あれくらゐの声は練習さへすれば人工でも出来る。それに高い月給を払ひ一家相伝の技術として稽古《けいこ》させてゐるのかも知れないなどといふ説をも建てた。そこでO先生を除くほかは、若い浄土宗門の僧侶《そうりよ》であるM君も、それから私も、あの仏法僧鳥の声は人工の声だといふ説に傾きながら帰路についた。時は十時半を過ぎてゐた。
 その途中で一人の青年に会つた。その青年は矢張り比叡山上で私等と一しよに歌の修行をし、会の散じてから単独で高野に来、今やはり仏法僧鳥を聴きに奥の院に行く途中なのであつた。
『今しきりに啼いてゐるところだから、非常にいい都合だ。ただ君に頼むがね、何時ごろ迄啼き続けてゐるか面倒だが確かめて呉れませんか。僕等はKといふ宿坊にゐるから明日の朝|一寸《ちよつと》知らして呉れたまへ』
 かうT君が青年に頼み、何か期するところがあるやうな面持《おももち》で歩いた。その時にはもういつのまにか大きな月が出て、高野の満山を照らして居り、空気が澄んでゐるので光が如何《いか》にも美しく、悪《あく》どく忙しくせつぱつまつた現世《げんぜ》でも、やはり身に沁《し》みるところがあつた。私等はそれでも提灯をつけたまま到頭宿坊に帰つて来、何か発見でもした様な気分で一夜ねむつた。

 翌朝T君は、起きると直ぐ高野山の地図を買つて来て調べてゐた。貧しい朝食をすまして横になつてゐると、そこにゆうべの青年が報告に来た。青年はゆうべ奥の院に行つた時には、鳥の声はしきりにして居つたさうである。それが十一時半になるとぴたりと止《や》んで、午前一時まで二たび啼くのを待つてゐたが、到頭啼かずにしまつたといふのである。
 この報告は、T君の説を確かめるのに非常に有力であつた。それのみではない。T君の調べた地図に拠《よ》ると、ゆうべ鳥の啼いた方向にはさう深い森林が無い。寧《むし》ろ浅山《あさやま》と謂《い》つて好い。それから、そこを通ずる道路がありそこに一二軒の人家がある。
『どうです。声の発源点は此処《ここ》ですよ』
 かう云つてT君は大きな手の指で、その人家のところを圧《お》しつけたりした。青年は最初は何の事だか分からず、怪訝《けげん》の顔をしてゐたが、仏法僧鳥の声の人工説だといふことを知つて、『実に惜しい』といふ顔をありありとした。茲《ここ》に於《おい》て私等の三人と一人の青年とを加へて四人は人工説に傾いてしまつた。
 けれども、O先生はこの説を是認されなかつた。『それは、Tさんの説のやうに人工かも知れない。けれども人工であつたとしても、数百年間この事を他へ漏らさない一山《いちざん》の人々は偉いんです。やつぱり本物の鳥と思つてきくんですね。それが空海《くうかい》の徳でせう。正岡子規先生ではないが、弘法《こうぼふ》をうづめし山に風は吹けどとこしへに照す法《のり》のともしび。ですよ』かう云はれるのであつた。

 私等は雨の晴れ間を大門《だいもん》のところの丘の上に上つて、遙か向うに山が無限に重なるのを見たとき、それから其処《そこ》のところから淡路島《あはぢしま》が夢のやうになつて横《よこた》はつてゐるのを見たときには、高野山上をどうしても捨てがたかつた。または金堂《こんだう》の中にゐて轟《とどろ》く雷鳴を聞きながら、空海四十二歳の座像を見てゐたときなどは、寂しい心持になつてこの山上を愛著《あいぢやく》したのである。
 併し或堂内で、畳の上にあがつて杉戸の絵を見てゐると小坊主に咎《とが》められた。そこにあたかも西洋人夫婦を案内して来た僧がゐて仏壇の内陣の方までも見せてゐる。『あれはどうしたのだ』といふ。『あれは寄附をしたのです』と答へる。『馬鹿いへ。僕らも寄附はして居るんだぞ』と云ふ。斯《か》かる問答は如何にもまづい表出の運動であつた。けれどもこの機縁も仏法僧鳥人工説に一つの支持を与へたのである。

 私等はかういふやうな経験をして高野山をくだつた。そして和歌の浦まで来たが、もう海水浴も過ぎた頃なので旨《うま》い魚を直ぐ食はせるところも見当らず、逝春《ゆくはる》に和歌の浦にて追ひ付きたりといふ句境にも遠いので、其処に夕がたまでゐてO先生と別れ三人は那智《なち》の方に行く汽船に乗つたのであつた。

 それから丸一年が過ぎた。私等は去年やつたやうな歌の修行の集まりをば武州《ぶしう》三峰山上《みつみねさんじやう》で開いた。然《しか》るに三峰山上には仏法僧鳥がしきりに啼いた。もう日が暮れかかると啼く。月明《げつめい》の夜などには三つも四つも競つて啼いた。その声は如何にも清澄で高野山上で聴いたのよりももつともつと美しかつた。それから三峰では直ぐ頭の上で啼くので、しぼる様な肉声も明瞭《め
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