も、つひに仏法僧鳥を聴かずに下山する者の方が多い。文人の書いた紀行などを読んでも、この鳥を満足に聴いて筆をおろしたものは尠《すくな》いのであつた。
私等は奥の院の裏手に廻り、提灯を消して暗闇《くらやみ》に腰をおろした。其処《そこ》は暗黒であるが、その向うに大きな唐銅《からかね》の鼎《かなへ》があつて、蝋燭《らふそく》が幾本となくともつてゐる。奥の院の夜は寂しくとも、信心ぶかい者の夜詣《よまゐ》りが断えぬので、燈火の断えるやうなことは無い。また夜籠《よごも》りする人々もゐると見え、私等の居る側に茣蓙《ござ》などが置いてある。私等は初めは小声でいろいろ雑談を始めたが、時が段々経つに従つて口数が減つて行き、そこに横になつてまどろむものもあつた。
『かう開化して来ては三宝鳥《さんばうてう》も何もあつたものぢやないでせう』
『第一、電車の音や、乗合自動車の音だけでも奴等《やつら》にとつては大威嚇《だいゐかく》でせう』
『それに、何処《どこ》かの旅団《りよだん》か何かの飛行機でもこの山の上を飛ぶことはあるでせう』
『いよいよ末法《まつぽふ》ですかね』
『それに山上講演のマルキシズムと、先刻《さつき》の女中の、院化《ゐんげ》はんも来なはるとで攻め立てられては三宝鳥も駄目ですよ』
『山はこれでも可なり深いらしいですがね。どれ、小便《おしつこ》でもして来るかな』
『もつと奥の方でなさいよ。ここだつて霊場ですから』
『承知しました』
杉と檜《ひのき》と鬱蒼《うつさう》として繁《しげ》つて、真昼でも木下闇《こしたやみ》を作つてゐるらしいところに行き、柵《さく》のところで小用《こよう》を足した。そのへんにも幾つか祠《ほこら》があり、種々の神仏《しんぶつ》が祭つてあるらしいが、夜だからよくは分からない。老木の梢《こずゑ》には時々|木兎《みみづく》と蝙蝠《かうもり》が啼いて、あとはしんとして何の音もしない。
それから小一時間も過ぎてまた小用を足しに来た。小用を足しながら聴くともなく聴くと、向つて右手の山奥に当つて、実に幽《かす》かな物声がする。私は、『はてな』と思つた。声は、cha―cha といふやうに、二声《ふたこゑ》に詰まつて聞こえるかと思ふと、cha―cha―cha と三声のこともある。それが、遙《はる》かで幽かであるけれども、聴いてゐるうちにだんだん近寄るやうにも思へる。それから二つゐるやうにも思へる。私は木曾《きそ》に一晩|宿《とま》つたとき、夜ふけて一度この鳥のこゑを聴いたことがあるので、その時にはもう仏法僧鳥と極《き》めてしまつてゐた。
『O先生、いよいよ啼きだしました。T君もM君も来ませんか』
四人は杉の樹の根方《ねかた》の処に蹲跼《しやが》み、樹にもたれ、柵の処に体をおしつけてその声を聴いてゐる。声は、木曾で聴いたのよりも、どうも澄んで朗かである。私は心中|秘《ひそ》かに、少し美し過ぎるやうに思つて聴いてゐたが、その時に既に心中に疑惑が根ざしてゐた。併《しか》し声は蔑《あなど》るべからずいい声である。その澄んで切実な響は、昼啼く鳥などに求めることの出来ない夜鳥の特色を持つてゐた。
そのうち、声は段々近寄つて来た。
さうして聴くと鳥はまさしく二つ居て、互に啼いてゐるのである。鳥は可なり高い樹の梢で啼くらしいが、少くとも五六町を隔ててゐる。私等は約一時間その声を聴いた。
『どうも有難い。ようございましたね』
O先生はかう云はれた。四人は踵《きびす》を返した。
『これで愈※[#二の字点、1−2−22]《いよいよ》、後生《ごしやう》も悪くはないやうなものだ』などと云ひ云ひ、石段を下りて無明の橋のへんに差しかかつた頃であつた。
『どうですか。木曾のと同じですか』かう突然T君が私にたづねた。
『いや実は僕もさつきから少し美し過ぎると思つて聴いてゐたんだが』かう答へた。その間にくどい思慮をめぐらすといふやうなことも無かつた。
『さうでせう。あれは怪しいですよ。ひよつとすると人工かも知れませんよ。ひどい奴だ』
かうT君が笑ひながら云つた。
『Tさんは鋭いからねえ。あれはどうも本物だと思はれる。やつぱり疑はない方が好《い》いんですよ』かうO先生が云はれた。
『いや、私ひとつ見破《みやぶ》つて見せます』T君も今度は少しく気色《けしき》ばんでゐた。
四人はもう一度奥の院のかげに行つた。鳥は相変らず啼いてゐるが、先程よりももつと近くなつて来てゐる。その声は澄明で、鉱物音を交へ、林間に反響してゐるところなどは、或は人工的のもののやうな気もするが、よくよく聴くと、何か生物《いきもの》の声帯の処をしぼるやうな肉声を交へてゐる。私は折角運|好《よ》くて聴いた仏法僧鳥であるからなるべく本物にした方が具合が好い。強ひてさうしようとするのであるが、矢張り
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