感謝した程であった。
 しかるにどうであろうか。一たび戦争になるや、急転直下に蚤の発生が増大し、如何ともすべからざるまでに至った。特に疎開児童の居る旅館などといったら、殆ど言語に絶するほど蚤が沢山いた。
 僕は終戦の年に山形県の生れ故郷に疎開したが、そのときも先ず夏季の蚤を恐れた。そこで、出来るだけナフタリンを集めることに努力し、部屋の蚤を出来るだけ少くしようとした。
 それでもいよいよ夏になってみると、驚くべきほど沢山の蚤がいた。僕は致方なく、古い布で袋を作ってもらい、嘗て高等学校の寄宿寮で為したようにし、一睡一醒の状態で辛うじて一夏をおくったが、蚤等は、袋の中に這入れない時には、僕の頸のところに集って来て存分血を吸うので、彼等にとってはそれで満足することが出来るのである。また一つ二つ袋の中に這入った奴を捕えようとすると電燈をつけるのが難儀だったりして、実にひどいめに逢ったのであった。
 それから蚤という奴はなかなか悧巧で、その袋を池に持って行ってはたいたりしても、なかなか旨く池の方へばかり跳ねるというわけには行かない。実に厄介な奴である。
 昭和二十一年の一月に、大石田というところ
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