斎藤茂吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蛹《さなぎ》に
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 蚤という昆虫は夏分になると至るところに居るが、安眠を妨害して、困りものである。
 生れ故郷の村にも蚤は沢山いたが、東京という大都会には蚤なんか居ないだろうと想像して、さて東京に来てみると、東京にも蚤が沢山いた。
 それは明治二十九年時分の話で、僕は浅草の三筋町に住んでいた。その家(浅草医院といった)の診察室に絨緞が敷いてあったが、その絨緞を一寸めくると、蚤の幼虫も沢山つかまえることが出来た。それから繭をつくって、蛹《さなぎ》になったのも居た。僕はそれ等をあつめ、重曹の明瓶などに飼っていたことがある。無論蚤の成虫もつかまえて飼って居た。時々前膊の皮膚に瓶《びん》の口《くち》を当てて血を吸わせたりする。蚤の雄《おす》が一瞬に飛ついて雌《めす》と交尾したりするありさまを見る。蛹がようやく色が濃くなって成虫になるありさまを見る。瓶の口には紙のふたをし、針でこまかい穴をあけて置けば死なずに居る。
 中学校を卒えて高等学校に入った。そこの寄宿寮に二年いたが、寝室に蚤が沢山いて安眠がどうしても出来ない。それにストームなどという習慣があり、学生が酒に酔って来て、折角寝入ったものを起してあるくので、益々眠れなくなる。僕は致方がないから、病人用ベッドのカバアを改良して袋にした。そうして全身裸でその中にもぐり、くびの処を巾著のように締めるように工夫して、毎夜辛うじて明かすことが出来た。それでも翌朝袋の中を見ると、蚤が五六ぴきから十ぴき位這入って居り居りしたものである。それほど寄宿寮には蚤が多かった。
 学生らは、いわゆる勤倹尚武だから、蚤なんかにまいってしまうような学生は学生でないような顔付をしたが、僕はなかなかそういう具合には行かなかった。
 それから数十年が経過した。追々国民の衛生思想が発達し、春秋の大掃除も励行せられ、或る家では、畳の下に新聞紙を敷き、その上にナフタリンを撒いて、蚤を幼虫のうちに退治することが出来るので、一般に蚤の発生が尠くなって行った。地方の旅館などでも、蚤の居る旅館の方が却って少いというほどまでになった。
 僕は柿本人麿の歿処を考証するために石見国を旅行したことがあったが、石見の僻村旅館でも蚤のいない旅館がいくらもあるという状態にあり、僕は一般衛生思想の発達に感謝した程であった。
 しかるにどうであろうか。一たび戦争になるや、急転直下に蚤の発生が増大し、如何ともすべからざるまでに至った。特に疎開児童の居る旅館などといったら、殆ど言語に絶するほど蚤が沢山いた。
 僕は終戦の年に山形県の生れ故郷に疎開したが、そのときも先ず夏季の蚤を恐れた。そこで、出来るだけナフタリンを集めることに努力し、部屋の蚤を出来るだけ少くしようとした。
 それでもいよいよ夏になってみると、驚くべきほど沢山の蚤がいた。僕は致方なく、古い布で袋を作ってもらい、嘗て高等学校の寄宿寮で為したようにし、一睡一醒の状態で辛うじて一夏をおくったが、蚤等は、袋の中に這入れない時には、僕の頸のところに集って来て存分血を吸うので、彼等にとってはそれで満足することが出来るのである。また一つ二つ袋の中に這入った奴を捕えようとすると電燈をつけるのが難儀だったりして、実にひどいめに逢ったのであった。
 それから蚤という奴はなかなか悧巧で、その袋を池に持って行ってはたいたりしても、なかなか旨く池の方へばかり跳ねるというわけには行かない。実に厄介な奴である。
 昭和二十一年の一月に、大石田というところに移転したが、三月はじめから肋膜炎になって臥床していると、四月にはもう蚤が出た。一つ二つに過ぎなかったものが段々ふえてくる。気がいらいらしていると、雇った看護婦が親切でよくその蚤を捕えてくれくれした。看護婦はその捕えた蚤のまだ生きているのを縫針に突きとおし、ハリツケデゴザイマスなどと言って自分のところに持って来てくれるので、枕頭でそれを見乍ら心を慰めて居るという具合であった。
 自分のまだ臥していたころ、DDTという薬のことが噂にのぼり、汽車の乗客が停車場で体ぢゅう撒かれたなどという話が伝わった。ある時看護婦が町の薬種屋から少しばかりその薬を買って来てくれた。
 それを試しに畳のうえ、布団の上などに撒いていたところが、どうも蚤が減ったような気がする。これはおもしろいとおもって、そこで県庁の衛生課に願ってもっと多くの分量をもらい、畳の白くなるほど撒布しておいたところが、いつということなく蚤が出なくなる傾向を示した。おかげ(真におかげさま)で、昭和二十一年の夏は、僕発明の蚤よけ袋の中に這入る必要もなく、病後の身を安らかに過ごすことが出来たのである。
 蚤という昆虫はいつ日本に渡来したものか
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