、枕草子に、『もたぐるようにして』などと書いてあるところを見ると、あのあたりの平安朝女性もやはり蚤には相当悩まされたものと見える。
 蚤は昼も出て来るけれども、大概夜出てくる。そうして暁方の五時ころからそろそろ逃げはじめる、そういう悧巧なところがある。そうして、あの赤褐色に光る奴が、まさに跳ね飛ぼうとする体勢の時が、一番美しいようだ。
 DDTの発明は瑞西国人によって成されたということを聞いたが本当であろうか。いずれにしても大発明の一つである。僕のような蚤を恐れる人間でも、こういう薬の発明されたうえは、もう安心して蚤を客観的に取扱うことが出来る。ウィンのプラーテル、ベルリンのルナパークあたりでは、蚤の見世物があった。蚤に小さい砲車を引かせたりして、ワーテルロー出陣の場面だなどと説明するのは、邪気がなくておもしろい。そうしてもはや傍観的客観的見物的である。ところがいつぞや森鴎外の椋鳥通信を読むに、独逸の蚤を見世物のために亜米利加に連れて行こうとすると、亜米利加の為政者がそれを禁止したということが出ていた。独逸蚤との混血によって亜米利加蚤の性《たち》が悪くなるという学理に拠ったものであった。こうなるともはや純客観というわけにはいかない。
 昭和二十二年の冬に疎開先を引きあげて東京に帰って来た。蚤が居るかとおもうと蚤がいない。これはDDT撒布のたまものであった。昭和二十三年になった。春の彼岸あたりは蚤が出るかとおもうと、蚤が出ない。夏至ごろになったら蚤が出るとおもうとやはり出ない。僕は汗をかきながら、蚤のいない夏床のうえに眠ることが出来た。



底本:「日本の名随筆18 夏」作品社
   1984(昭和59)年4月25日第1刷発行
   1999(平成11)年11月20日第20刷発行
底本の親本:「斎藤茂吉全集 第七巻」岩波書店
   1975(昭和50)年6月初版発行
入力:門田裕志
校正:氷魚、多羅尾伴内
2003年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング