をつぶして臓腑《ざうふ》をかぶれかかつてゐる腕になすりつけたけれども、赤く腫《は》れて汁の出て来たところは今度は結痂《けつか》して行つた。
絵のところだけが黒く結痂したから、直つたのかといふとさうでない。それだから風呂《ふろ》に入つた時などに、秘《ひそ》かにその痂《かさぶた》を除いてみると、その下は依然として爛《ただ》れて居つて深い溝《みぞ》のやうになつてゐる。そして次の日には二たびそこに結痂《けつか》するといふ具合でなかなか直らない。ほかの子供等は、さういふ女陰・男根図のことなどはいつのまにか忘れて行つた。それはその筈で描いて貰つてからすでに一ヶ月余も経過したのであるから剥《は》げて取れてしまつたのが多かつた。縦《たと》ひ残つてゐてもそんなものはもう珍らしくはなかつた。ただ僕ひとりは毎日そのことで苦しんだ。そして痛いのを我慢して痂を除いてはそこに蟹の臓腑をつけてゐるに過ぎなかつた。痂を取つたところの溝がだんだん深くなるのに気付いてもそれを母や父に打明けることが出来ない。僕は空《むな》しく二月を過ごした。
けれども、或時たうとうそれを母から見付けられその成行を一々白状してしまつた。母は僕を父のところに連れて行つた。僕は恐る恐るすでに結痂した男根図を父に見せた。父も母も共に笑つた。叱《しか》られるつもりのところ叱られなかつたので僕も大きなこゑを立てて笑つた。その晩に父はどろどろした油薬《あぶらぐすり》のやうなものを拵《こしら》へて来て塗つて呉れた。さうすると二三日で痂が取れて行つた。そこへまた油薬のやうなものを塗つて呉れた。ひどく苦んだ漆瘡《しつさう》の男根図はかくのごとくにしてつひに直つた。瘡《かさ》は極く『平凡』に癒《い》えた。
『はじめは脱兎《だつと》の如く』と云つておいて、そして、『をはりは処女《しよぢよ》のごとし』と云ふあたりは、味《あぢは》つてみるとどうも旨《うま》いところがある。ただ余り陳腐になつてゐるから、今までそれを味はぬのであつた。その陳腐さは、レオナルド・ダ・ヴインチの画《ゑが》いた、モナ・リザ・ジヨコンダの像のやうなものであつた。そして僕の漆瘡《しつさう》物語の結末が消えるやうにして無くなつてしまつたときに、この諺《ことわざ》、警句をおもひ起したのであつた。おもひ起して味つてみるとどうも言方に旨いところがあつた。僕は心中ひそかに満足をおぼえた。レオナルド・ダ・ヴインチをおもひ起したのはかういふ訣《わけ》である。
『凡《およ》そ児童はその父の能力に就いてどう思惟してゐるか』といふことに就いて、ある時期には児童は父の万能を信ずることがある。さて時が経つと、児童のまへには父は追々と平凡化されて行く。僕の父もその数に漏れなかつた。僕が少しづつ大きくなるに連れて僕の父も益※[#二の字点、1−2−22]平凡化されたから、父が三稜鏡を炎のなかに投じた話などをしても僕は心中感服したことはない。然るに僕が漆瘡《しつさう》であれほど苦しんだ時に、父は極めて平凡にそれを直して呉れた。僕はその時、父には何か知らんやはり特殊の『能力』があるのではあるまいかと思つたのである。ここで父の平凡化は別な色合《いろあひ》を以て姿を変へたのであつた。それから『平凡治癒』といふ概念である。これは実地医家は必ず思当《おもひあた》るに違ひない。疾《やまひ》は幾ら骨折つても癒えぬときがある。さうしてゐて癒ゆるときには極めて平凡に癒えてしまふ。即ち疾を『平凡治癒』の機転に導くのが名医である。
彼の童子から漆の汁で描いて貰つた絵がかぶれて二月も苦しんだけれどもそれは癒えた。癒えたが痂《かさぶた》を結んだところが瘢痕《ばんこん》組織で補はれたと見えてそこに痕《あと》が残つた。その小さい男根図の痕は、小学校を出て中学校に入り中学校を出て高等学校に入るころまでは残つてゐた。僕は風呂に入つたりするとその痕を凝視して追憶にふけることもあつた。然るにその痕はいつのまにかおぼろになつて行き今ではもはやその形を認めることが出来なくなつた。僕もそろそろ初老期へ近づいて来た。南|独逸《ドイツ》の客舎で父の死報に接した時も僕は忽然《こつぜん》として漆瘡のことを想出《おもひだ》し、床のなかで前膊の内面を凝視したけれども形はすでになくなつてゐた。
漆瘡に、生蟹黄調塗とか、蟹沫塗之とか、または蟹殻滑石研細※[#「てへん+參」、121−下−9]之乾者蜜和塗などといふ療方のあるのは漢医方に本づくのであつた。和文に漆まけを癒《いや》しとあるのも亦《また》さうである。父の拵《こしら》へて呉れたものはそんなものではなかつた。油薬のやうなどろどろしたものであつたが、その薬の色やなんかはどうしてもおもひ起すことが出来ない。そのあたりの父の顔も分からない。努めておもひ浮べようとすると、晩年の老いた父の顔のみが浮んでくるのである。
6 初詣
明治二十九年に丁度僕が十五になつたので、父は湯殿《ゆどの》山の初詣《はつまうで》に連れて行つた。その時父は四十五六であつただらうから現在の僕ぐらゐの年であるがもう腰が屈《まが》つてゐた。これは田畑に体を使つたためであつた。しかしそれまで幾度となく湯殿山に参詣《さんけい》し道中《だうちゆう》自慢《じまん》であつた。
僕も父もしばらくの間毎朝水を浴びて精進し、その間に喧嘩《けんくわ》などを避《さ》け魚介虫類のやうなものでも殺さぬやうにし、多くの一厘銭を一つ一つ塩で磨いて賽銭《さいせん》に用意した。参詣というても今時のやうに途中まで汽車で行くのではない。夜半にならぬ頃に出立して夜の明けぬうち五六里は歩くのである。第一日は本道寺《ほんだうじ》といふところに泊つた。そこまでは村から行程《かうてい》十四里である。第二日は、まだ暁にならぬうちに志津《しづ》といふ村に著いて、そこで先達《せんだつ》を頼んだ。それからの山道は雪解《ゆきどけ》の水を渡るといふやうなところが度々あつた。まだ午前であつたが、湯殿山の谿合《たにあひ》にかかると風の工合があやしくなつてきてたうとう『御山《おやま》』は荒れ出して来た。豪雨が全山を撫《な》でて降つてくるので、笠《かさ》は飛んでしまひ、蓙《ござ》もちぎれさうである。大木の枝が目前でいくつも折れた。それでも先達《せんだつ》はひるまずに六根清浄御山繁盛《ろくこんしやうじやうおやまはんじやう》と唱へて行つた。さうするうち、渡るべき前方の谿は一めんの氷でうづめられてそれが雨で洗はれてすべすべになつてゐる。下手《しもて》の方は深い谿に続いてひどくあぶないところである。僕は恐る恐るその上を渡つて行つたが、そこへ猛風が何ともいへぬ音をさせて吹いて来た。僕は転倒しかけた。うしろから歩いて来た父は、茂吉《もきち》匍《は》へ。べたつと匍へ。鋭い声でさういつたから僕は氷のうへに匍つた。やつとのことでしがみ付いてゐたといふ方が好いかも知れない。さういふことを僕はおぼえてゐる。
『語られぬ湯殿《ゆどの》にぬらす袂《たもと》かな』といふ芭蕉の吟のあるその湯殿の山に僕は参拝して、『初まゐり』の願《ねがひ》を遂げた。鉄《かね》の鎖で辛うじて谿底の方へくだつて行つたことだの、それから、谿間の巌《いは》から湯が威勢よく湧《わ》いてながれてゐるところだのをおぼえてゐる。もどりに志津《しづ》に一泊して、びしよぬれの衣服をほした。この日の行程十六里と称へられてゐる。
第三日は、麗《うらら》かな天気に帰路に就いた。七八里も来たころ、父は茶屋に寄つてぬた餅《もち》を註文した。ぬた餅と謂《い》ふのは枝豆を擂鉢《すりばち》で擂《す》つて砂糖と塩で塩梅《あんばい》をつけて餅にまびつたものである。父は茂吉なんぼでも食べろと云つた。それから道中をするには腹を拵《こしら》へなければ駄目である。山を越す時などには、麓《ふもと》で腹を拵へ、頂上で腹を拵へて、少し物を持つて出懸けるといいなどといつてなかなか上機嫌であつた。
もう山形《やまがた》の街《まち》も近くなつたころ、当時の中学校で歴史を担任してゐる教諭の撰した日本歴史が欲しくなり、しきりにそれを父にせがんだ。その日本歴史は表の様に出来てゐて工面のいい家の子弟は必ず持つてゐたし小学校でも先生がそれを教場に持つて来たりするので、僕は欲しくて欲しくて溜《た》まらなかつたものである。然るに父はどうしてもそれを買つて呉れない。僕らは山形の街に入つた。僕は幾たびも頼むが父は承諾しない。そのうち、書物の発行書店のまへを通りすぎてしまつた。僕はなぜ父はそんなに吝嗇《りんしよく》だらうかなどと思ひながら父の後ろを歩いたのであつた。
7 日露の役
日露戦役のあつたときには、僕はもう高等学校の学生になつてゐた。日露の役には長兄も次兄も出征した。長兄は秋田の第十七聯隊から出征し、黒溝台《こくこうだい》から奉天《ほうてん》の方に転戦してそこで負傷した。その頃は、あの村では誰彼《だれかれ》が戦死した。この村では誰彼が負傷したといふ噂《うはさ》が毎日のやうにあつた。恰《あたか》も奉天の包囲戦が酣《たけなは》になつた時であつただらう。夜半を過ぎて秋田の聯隊司令部から電報がとどいた。そのとき兄嫁などはぶるぶるふるへて口が利けなかつたさうであつた。父は家人の騒ぐのを制して、袴《はかま》を穿《は》きそれから羽織を著《き》た。それから弓張《ゆみはり》を灯《とも》し、仏壇のまへに据わつて電報をひらいたさうである。そのことを僕が偶※[#二の字点、1−2−22]《たまたま》帰省したりすると嫂《あね》などがよく話して聞かせたものである。
父は若いころ、田植をどりといふのを習つてその女形《をんながた》になつたり、堀田《ほつた》の陣屋があつた時に、農兵になつて砲術を習つたり、おいとこ。しよがいな。三さがり。おばこ。木挽《こびき》ぶし。何でもうたふし、祖父以来進歩党時代からの国会議員に力※[#「やまいだれ+(「堊」の「王」に代えて「田」)」、124−下−1]《ちからこぶ》いれて、※[#「宀/隆」、第4水準2−8−9]応《りゆうおう》和尚から草稿をかいてもらつて政談演説をしたり、剣術に凝り、植木に凝り、和讃に凝り、念仏に凝り、また穀断《ごくだち》、塩断《しほだち》などをもした。
僕のやうな、物に臆し、ひとを恐れ、心の競ひの尠《すくな》いものが、たまたま父の一生をおもひ起すと、そこにはあまり似寄《により》の無いことに気付くのであつたが、けれども是《これ》は自ら斯《か》う思ふといい。僕は父が痰《たん》を煩つたときの子である。生薑《しやうが》の砂糖漬などを舐《ねぶ》つてゐたときの子である。さういふ時に生れた子である。ただ、どちらにしても馬胎《ばたい》を出《い》でて驢胎《ろたい》に生じたぐらゐに過ぎぬとは僕もおもふ。
8 青根温泉
父は五つになる僕を背負ひ、母は入用《いりよう》の荷物を負うて、青根《あをね》温泉に湯治《たうぢ》に行つたことがある。青根温泉は蔵王山を越えて行くことも出来るが、その麓《ふもと》を縫うて迂回《うくわい》して行くことも出来る。
父の日記を繰つて見ると、明治十九年のくだりに、『八月七日。雨降。熊次郎、おいく、茂吉、青根入湯に行《ゆく》。八月十三日、大雨降り大川の橋ながれ。八月十四日。天気|吉《よし》。熊次郎、おいく、茂吉三人青根入湯|返《がへ》り。八月廿三日。天気吉。伝右衛門《でんゑもん》、おひで、広吉、赤湯《あかゆ》入湯に行。九月|朔《ついたち》。伝右衛門、おひで、広吉、赤湯入湯かへる』。ここでは、父母が僕を連れて青根温泉に行つたことを記し、ついで、祖父母が僕の長兄を連れて、赤湯温泉に行つたことを記してゐる。父の日記は概《おほむ》ね農業日記であるが、かういふ事も漏らさず、極く簡単に記してある。青根温泉に行つたときのことを僕は極めて幽《かす》かにおぼえてゐる。父を追慕してゐると、おのづとその幽微になつた記憶が浮いてくるのである。
父は小田原|提灯《ちやうちん》か何かをつけて先へ立つて行くし、母はその後からついて行
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