ひばしや》が通り、新発田《しばた》の第十六|聯隊《れんたい》も通つた。たまには二頭馬車などの通ることもあり、騎馬の人の通ることもある。珍らしいものの通るときには、宝泉寺まで走つていつて遠目鏡《とほめがね》でそれを見た。
人力車夫が此《こ》の大街道を勢づいて走つてゐるときには心中に一種の誇《ほこり》があつただらう。恰《あたか》もヴアチカノの宮殿を歩いてゐるときに何か胸が開くやうに感ずるが如きものである。僕の父にしてもさうである。父がこの大街道を独占したやうにして歩いてゐたときには、そこにやはり不意識の矜尚《きようしやう》があつたに相違ない。父の剛愎《がうふく》な態度は人力車夫の矜尚の過程に邪魔をしたから、梶棒をどしんと僕の尻に突当てたのである。その不意打《ふいうち》の行為が僕の父の矜尚の過程に著しい礙《さまたげ》を加へたから父は忽然《こつぜん》として攻勢に出《い》でたのではなかつたらうか。
4 仁兵衛。スペクトラ
仁兵衛《にへゑ》は謡《うたひ》の上手で、それに話上手であつた。仁兵衛はいつも日の暮方になると丘陵にのぼつて川に沿うた村だの山ふところに点在してゐる村だのを眺める。村の家から豊かに煙の立ちのぼるのを見極めると、仁兵衛はいつも著換《きがへ》してその家に行く。その家には必ず婚礼があつた。祝言《しうげん》の座に請《しやう》ぜられぬ仁兵衛ではあるが、いつも厚く饗《きやう》せられ調法におもはれた。仁兵衛は持前の謡をうたひ、目出度《めでた》や目出度を諧謔《かいぎやく》で収めて結構な振舞《ふるまひ》を土産に提げて家へ帰るのであつた。村の人々はその男を『煙仁兵衛《けむりにへゑ》』と云つた。
その仁兵衛が或る夜上等の魚を土産に持つて帰途に著くと、すつかり狐に騙《だま》されてしまふところを父はよく話した。どろどろの深田に仁兵衛が這入《はひ》つて酒風呂《さかぶろ》のつもりでゐる。そして、『あ、上燗《じやうかん》だあ、上燗だあ』と云つてゐるところを父は話した。そこのところまで来ると父のこゑに一種の勢《いきほひ》が加はつて子供等は目を大きくして父の顔を見たものである。父は奇蹟を信じ妖怪変化《えうくわいへんげ》の出現を信じて、七十歳を過ぎて此世を去つた。
寺小屋が無くなつて形ばかりの小学校が村にも出来るやうになつた。教員は概《おほむ》ね士族の若者であつた、なかには中年ものも居た。『窮理の学』といふことがそれらの教員の口から云はれた。父は冬の藁為事《わらしごと》の暇に教員のところに遊びに行くと、今しがた届いたばかりだといふ三稜鏡《さんりようきやう》を見せられた。さうして日光といふものは斯《か》うして七色の光から出来て居る。虹《にじ》の立つのはつまりそれだ。洋語ではこれをスペクトラと謂《い》つて七つの綾《あや》の光といふことである。旧弊ものは来迎《らいがう》の光だの何のと謂ふが、あれは木偶法印《でくほふいん》に食はされてゐるのだ。教員は信心ぶかい父のまへにかう云つて気焔《きえん》を吐いた。
父は切《しき》りにその三稜鏡をいぢつてゐたが、特別に為掛《しかけ》も無く、からくりも見つからない。しかしそれで太陽を透《すか》して見ると、なるほど七|綾《りよう》の光があらはれる。
父は暫《しばら》く三稜鏡をいぢつてゐたが、ふと其《それ》を以《もつ》て炉の火を覗《のぞ》いた。すると意外にも炉の炎がやはり七つの綾になつて見える。父は忽《たちま》ち胸に動悸《どうき》をさせながら、これは、きりしたん伴天連《ばてれん》の為業《しわざ》であるから念力で片付けようと思つた。
教師様。お前はきりしたん伴天連に騙《だま》されて居るんではあんまいな。これを見さつしやい。お天道《てんたう》さまも、ほれから囲炉裏のおきも、同じに見えるのがどうか。からくりが無いやうにして此の中に有るに違ひないな。きりしたん伴天連おれの念力でなくなれ。
かういつて、父は三稜鏡をいきなり炉の炎の中に投げた。教員は驚き慌ててそれを拾つたが、忿怒《ふんど》することを罷《や》めて、やはり父がしたやうに炉の炎をしばらくの間三稜鏡で眺めてゐた。教員は日光と炉の焚火《たきび》と同じであるか違ふものであるかの判断はつかなかつた。教員の窮理の学はここで動揺した。父は威張つてそこを引きあげた。
後年父は屡《しばしば》その話をした。文明開化の学問をした教員を負かしたといふところになかなか得意な気持があつた。けれども単にそれのみではなかつたであらう。神を念じて穀断《ごくだち》塩断《しほだち》してゐたやうな父は、すぐさまスペクトラの実験の腑《ふ》におちよう筈《はず》はないのである。腑に落ちるなどと謂《い》ふより反撥《はんぱつ》したといつた方がいいかも知れない。
それからずつと月日が立つて、父は還暦を過ぎ古稀《こき》をも過ぎた。父は上山町のとある店先で、感に堪へたといふ風で、蓄音機の喇叭《ラツパ》から伝つてくる雲右衛門《くもゑもん》の浪花節を聞いてゐたことがある。けれども、父はその蓄音機は窮理の学に本づくものだといふことなどは追尋《つゐじん》しようともしなかつた。スペクトラを退治した写象なども無論意識のうへにのぼつて来なかつたのである。
5 漆瘡
村の学校が隣村《りんそん》の学校に合併されて、そこに尋常高等小学校の建つたのは、森文部大臣が殺されて、一二年も経つたころであつただらう。
学校まで小《こ》一里あつた。雪の深い朝などには、せいぜい炭つけ馬が一つ二つ通るぐらゐなところで、道がまだ附いてゐない。雪が腰を没すといふやうなことは稀《まれ》でなかつた。子供等は五六人固まつてその深雪を冒して行くのであるが、ひどく難儀をしたものである。途中で泣出して学校に行著くまで黙らなかつた子などもゐた。
けれどもそこを辛抱すれば、柳に銀色の花が咲くころから早春が来て、雪の降るのがだんだん少くなつて来る。それから一月も立てば、麗《うらら》かな天気が幾日も続いて、雪がおのづと解けてくる。道は『雪解《ゆきどけ》みち』になつて、朝のうちは氷つても午《ひる》過ぎからは全くの泥道で、歩くのにまた難儀なのが幾日も幾日も続く。さういふ時には草鞋《わらぢ》は毎日一足ぐらゐづつ切れた。八つか九つになつた僕はかうして毎日学校へ通つた。
それを通越すと、道の片隅の方などに乾いたところが見え初めてくる。それが日一日と大きくなり、向うの方に見えてゐた乾いたところと連続してしまふ。さういふ土の乾いたところを、子ども達は『草履道』と云つて、そこを踏んで躍上《をどりあ》がつて喜んだ。
街道の雪が消え、日あたりの林の雪が消え、遠山を除いて、近在の山の雪が消えると、春が一時に来てしまふ気持である。太陽はまばゆいやうに耀《かがや》く。木の芽がぐんぐん萌《も》えはじめる。苞《つと》をやうやく破つたばかりの、白つぽいやうな芽だの、赤味を帯びたやうなものだの、紫がかつたものだの、子供等は道ぐさ食ひながらさういふ木の芽をぽきりと摘んで口の中で弄《もてあそ》ぶものもゐる。雲雀《ひばり》は空気を震動させて上天の方にゐるかとおもふと、閑古鳥《かんこどり》は向うの谿間《たにま》から聞こえる。楢《なら》、櫟《くぬぎ》の若葉が、風に裏がへるころになれば、そこに山蚕《やまこ》が生れて、道の上に黒く小さい糞《ふん》を沢山おとすのであつた。
五六人総勢十人ぐらゐの子供等が、さういふ日に恣《ほしいまま》に道草を食つて毎日おなじ道を往反《わうへん》する。蟻《あり》の穴に小便をしたり、蛇を殺してその口中《こうちゆう》に蛙《かへる》を無理におし込んだり、さういふ悪戯《いたづら》をしながら、時間が迫つてくると皆学校まで駈出して行つた。
然《しか》るにそれらの子供を威圧してゐる童子がひとりゐた。年はそのころ十一ぐらゐであつた。年かさも大きいし猛烈なところがあつて、村の学校の子供等を征服してゐた。周囲の子供等を引率して学校の授業も何もかまはずに山や沢に出掛けるので、そのやり方が何処《どこ》か猛烈なところがあつた。一度教員は忿怒《ふんど》して学校の梁木《はりき》にその童子をつるして折檻《せつかん》したことがある。それは森文部大臣が東北の学校を視察して、山形から上山に行くために早坂新道を通られるといふ日であつた。僕らは文部大臣を敬礼するために四五日の間その稽古《けいこ》をし、滅多に穿《は》くことのない袴《はかま》を穿き、中にはこれも滅多には著《き》ぬ襯衣《しやつ》を著たりなどして学校に行つたのであつたが、童子は何時《いつ》の間にかさういふ子供等を引率して山に遊びに行つてしまつた。それであるから、文部大臣を敬礼する時がだんだん近づいてくるのに子供等が帰つて来ないといふのであつた。併し文部大臣の敬礼がどうにか間に合つて、僕等は早坂新道に整列し、人力車で通つた文部大臣森有礼に小さいかうべをさげた。教員はその日は平穏な風をしてゐた。が、次の日にその童子を学校の梁木に吊《つる》して、鞭《むち》で続けざまに打つてみんなに見せたのであつた。それから間もなく森文部大臣が殺されたのだといふやうな気がする。さういふことは総《すべ》てまだ学校の合併されない前のことである。学校が合併されてからは、その童子もやはり学校に通つて、おのづから周囲の子供どもを威圧してゐた。
美しく晴れた朝、その童子は僕らを合せた七八人の中心になり、思ふ存分道ぐさを食ひながら学校へ出掛けて行つた。硫黄泉を源とする酢川《すかは》の橋から石を投げたりなんぞして、しばらく歩くと、道端に五六本の漆《うるし》の木がある。これは秋には真赤《まつか》に紅葉したのであつたが、今は小さい芽が枝の尖端《せんたん》のところから萌えいでてゐる。
その漆の木のところに行くと、童子はみんなに列《なら》ぶやうに言附けた。そして自分で漆の芽を摘み取ると芽の摘口《つみぐち》から白い汁が出て来た。童子はみんなに腕をまくらせて、前膊《ぜんはく》の内面のところに漆の汁で女陰と男根とを画《ゑが》いた。女陰などといふとすさまじく聞こえるが、実は支那の古篆《こてん》の『日』の字のやうな恰好《かつかう》をしてゐるものに過ぎない。男根でもさうである。皆 〔Pra:putium〕 などが無く思ひきり単純化されたものである。中江兆民は癌《がん》に罹《かか》つて余命いくばくもないといふとき、「一年有半」といふ随筆を書いた。そのなかに慥《たし》か、『陰陽二物』の何のと云つて日本国を貶《けな》してゐたとおもふが、あれは無理だ。羅馬《ロオマ》は無論|巴里《パリ》に行つても、倫敦《ロンドン》、伯林《ベルリン》に行つても、さういふ邪気の無い絵はいくつも描いてある。この童子もただ邪気の無い絵をかいたに過ぎない。童子はそれでも漆の芽を幾つか取換へたりなどしてそれを描いた。描いて貰《もら》ふと皆《みんな》が声を挙げて笑つた。そして汁の乾くのを促すために息を吹きかけたりなどした。
大小いろいろと描いて来て、僕の腕に小さいのを描いてくれた。それは今からおもへば降誕八日めに割礼《かつれい》した耶蘇《ヤソ》の男根のやうな恰好であつたとおもへばいい。童子は最後に自分の腕に思ひ切り大きいのを描いておしまひにした。
次の日の朝みんなが集まつて腕の絵を見せ合つて大声で笑つた。絵のところだけが黒くなつて乾いたから、きのふに較《くら》べてはつきりして来てゐる。然るに僕のだけは絵のところが黒くならずに赤くなつて少し腫《は》れあがつてゐる。
その次の朝もみんなが絵を見せあふと、絵のところが益※[#二の字点、1−2−22]《ますます》黒くなつて乾いてゐるのに、ただ僕のだけはゆうべから癢味《かゆみ》が増して来、それに痛味《いたみ》が加はつて絵のところから汁が出はじめた。僕は授業をうける時にも癢いのと痛いのとでなやんで居た。さうすると、沢蟹《さはがに》をつぶしてつけると直るといふものがあつた。学校の裏は直ぐ沢になつてゐて、石を一寸《ちよつと》避《よ》けると小さい蟹を幾つも捕へることが出来る。僕はそれ
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