つて、また三十分間ぐらゐも経つた頃であつたらうか。一人の若者がたうとう八十吉を肩にかついで水面に浮上つて来た。若者は何か鋭く叫んで、その肩には生白い人の体がぶらさがつて、首の方がだらりとして腕などは日にからびた葱《ねぎ》の白いところを見るやうな、さういふ光景が電光のごとくに僕に見えた。
『お関の婿だ。あれあ』
『お関の婿あ八十吉を見つけた』
かういふこゑが聞こえた。お関は村はづれに小さい店を開いてそこで揚物だの蒟蒻《こんにやく》煮などを売つてゐた。八十吉を引上げたお関の婿といふのはそこへ他村から入婿に来た若者のことであつた。この若者は其《そ》の数年後隣村の火事に消防に行つて身を挺《ぬき》んじて働いたとき倉の鉢巻が落ちてつひに死んだ。八十吉が水の中からやうやく上つてから暫くは、人間の重苦しい鋭い一種の叫びごゑがそのあたり一帯にきこえて居たが、間もなく元の静寂に帰つた。
蔵王山《ざわうさん》の麓《ふもと》に湧出《わきで》る硫黄泉の湯尻《ゆじり》が、一つの大きい滝瀬をなして流れてゐる。それが西に向つて里へ里へと流れ下つて、金瓶村の東境《ひがしざかひ》に出るとそこから急に折れて北へ向つて流
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