《かぐう》にあつてこのことを想出《おもひだ》して、その時の父の顔容を出来るだけおもひ浮べて見ようと努めたことがあつた。帰国以来僕は心に創痍《きず》を得て、いまだ父の墓参をも果《はた》さずにゐる。家兄の書信に拠《よ》ると八十吉は十二で死んでゐるから僕の十一のときであつた。八十吉は金瓶村宝泉寺に葬られてあつて、円阿香彩童子といふ戒名をもつてゐる。(大正十四年九月記)

    2 痰

 父は長い間、痰《たん》を煩つてゐた。小男で痩《や》せた父が咳込《せきこ》んで来ると、少し前かがみになつて、何だかお腹《なか》の皮でも捩《よぢ》れるやうに咳込むのがいかにも苦しさうであつた。ところが、その苦しさうな咳が一とほり済むと、イツヘ、イツヘ、イツヘ、イツヘといふ咳が幾つか続いて、それから、イツシ、イツシ、イツシ、イツシといふ咳になる。その工合がどうもをかしいので、幼童の僕がその真似《まね》をしたものであつた。仏壇の勤めなどがまだ終らぬうちに父が咳込んで来てさういふ異様な咳になると、勝手元で働く母の傍にくつついてゐながら僕がイツシ、イツシ、イツシ、イツシといふ真似をして、母から睨《にら》まれたりするけ
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