に欲しい。
ミユンヘンに留学中は、主に実験脳病理学のことをやつた。少い暇に読む書物も、それから考へることもさういふことが主《おも》になつてゐた。〔ischa:mische Zellvera:nderung〕 といふやうなこと、Kolliquations−Nekrose とか、koagulierende Nekrose とか、例へばさういふ概念が頭を領してゐるのであつた。そのまた暇に僕は心理書を読んでみた。Hylopsychismus といふことだの、Zerlegung der Gignomene とか、Unbewusstheit der Reduktionsbestandteile とかいふことだの、さういふことが頭を悩ましたのであつた。
ところが、僕の下宿に馬琴《ばきん》のものが置いてあつた。もう古びて、何代《なんだい》もの留学生が異郷の寂しさをそれで紛らしたといふことを証拠立ててゐた。馬琴のものなどはこれまで読んだことのない僕が、ある時ふとそれを読んでみた。久遠《くをん》のむかしに、天竺《てんぢく》の国にひとりの若い修行《しゆぎやう》僧が居り、野にいでて、感ずるところありてその精《せい》を泄《もら》しつ、その精草の葉にかかれり。などといふやうなことが書いてあつた。僕は計らずも洋臭を遠離《をんり》して、東方の国土の情調に浸つたのであつた。さういふ心の交錯のあつたときに、僕は父の訃音《ふおん》を受取つた。七十を越した齢《よはひ》であるから、もはや定命《ぢやうみやう》と看《み》ても好《よ》いとおもふが、それでもやはり寂しい心が連日|湧《わ》いた。夜の暁方《あけがた》などに意識の未だ清明《せいめい》にならぬ状態で、父の死は夢か何かではなからうかなどと思つたこともある。併《しか》し目の覚めて居るときには、いろいろと父の事を追慕した。それは尽《ことごと》く東海《とうかい》の生れ故郷の場面であつた。「念珠集」は所詮、貧しい記録に過ぎぬ。けれどもさういふ悲しい背景をもつてゐるのである。僕を思つてくれる友よ。どうぞ怒《いか》らずに欲しい。
大正十四年八月に、比叡山《ひえいざん》のアララギ安居会《あんごくわい》に出席して、それから先輩、友人五人の同行《どうぎやう》で高野山《かうやさん》にのぼつた。登山自動車の終点で駕籠《かご》に乗らうとした時に、男が来て北室院といふ宿坊《しゆくばう》を紹介してくれた。それから豪雨の降るなかを駕籠で登つて宿坊へ著いた。そこに二晩|宿《とま》り、貧しい精進《しやうじん》料理を食つた。饅頭《まんぢゆう》が唯ひとつ寂し相に入つてゐる汁で飯を食べたことなどもある。而《そ》して、そこで勧められる儘《まま》に、父の追善《つゐぜん》のために廻向《ゑかう》をして貰《もら》つた。その時ふと僕は父が死んでからもう三回忌になると思つたのであつた。
本来からいへば七月に三回忌の法事をするのであるが、稲作《いなさく》の為事《しごと》が終へてから行ふことになり、八月、九月、十月と過ぎて、十月のすゑに行つた。けれども僕は東京の事情に礙《さまた》げられて列席することが出来ないので、そのことをも僕はひどく寂しくおもつた。法事終へてから家兄が父の小さい手帳を届けて呉れた。これは大正四年に西国《さいこく》に旅《たび》した時の父の日記である。
五月六日。旧三月廿三日。天気|吉《よし》。吉野町より、朝六時吉野山のぼり、午前十一時吉野駅発。高野口《かうやぐち》駅え午後一時三十分著。是《これ》より五十丁つめ三里高野山え上り、午後八時頃北室院に著。一円、吉野町宿料払。五十銭、吉野山見物|車《くるま》ちん。五十銭、同所寺に参詣費。三十銭、吉野口駅より高野口駅迄切符代。五十銭、昼飯料。二円六十銭、籠《かご》に乗賃払。七円五十銭、日ぱい料北室院に上げる。
五月七日。旧三月廿四日。晴天。朝の八時より参詣|致《いたす》。総参詣人一日へいきん二万人以上づつ有《ある》由《よし》。午後一時より高野山より下り高野口駅え午後四時に著。是より粉河《こかは》駅え著。かなも館支店宿泊。一円、参詣費。一円五十銭、北室院宿料。五十銭、荷物|負賃《おひちん》。一円、途中小使。五十銭、昼飯料。五十銭、車賃《くるまちん》。四十銭、汽車賃。
これを見ると、父は十年前に高野山にのぼり偶然にも北室院に宿泊して、宿料が一円五十銭なのに、日牌料《につぱいれう》七円五十銭も上げてゐる、これは、僕の母のために供養《くやう》して貰つたのに相違ない。母は大正二年に歿《ぼつ》したのだから、大正四年は三回忌に当る都合である。父の日記に拠《よ》ると、高野山を半日参詣して直《す》ぐその午後には下山して居る。仏法僧鳥《ぶつぽふそう》を聞かうともせず、宝物《はうもつ》も見ず、大門の砂のところからのびあがつて、
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