染《にしめ》(くわい。氷こん。にんじん。竹の子。しひたけ)。手しほ皿(焼とうふ。くづかけ。牛蒡黒煮)。皿(うこぎ。わらび漬)。下あげもの(くわい。牛蒡。柿。かやのみ。赤いも)。大平《おほひら》(くわい。しひたけ。ゆづ)。汁(とうふ。ふのり)。茶くわし(せんべい)。引くわし(うんどん五わ但《ただし》四十めたば。まんぢゆう七つ但《ただし》一つに付四厘づつ)。こんなことが書いてある。これで思起《おもひおこ》すのは、陰暦の二月すゑには、既に韮が萌《も》え、木の新芽が饌《せん》に供し得る程になつてゐるといふことである。それから、『わらび漬』などとあるのも少年の頃をしのばしめるのであつた。
 その父の帳面に、僕が生れた時祝に貰つた品々を記した個所があるから一寸《ちよつと》書とどめておきたいと思ふ。明治十五|壬午《みづのえうま》年三月廿七日|出生《しゆつしやう》。守谷《もりや》茂吉義豊。安産見舞受帳《あんざんみまひうけちやう》。小王余魚七枚、菅野|弥五右衛門《やごゑもん》。金二十銭外に味噌一重、金沢治右衛門。金十銭、鈴木庄右衛門。金十銭、鈴木|作兵衛《さくべゑ》。金十銭、斎藤三郎右衛門。鰹《かつを》ぶし一本外に味噌一重、永沢清左衛門。焼かれい三枚、松原村山本善十郎。金五銭、斎藤富右衛門。金十銭、大沢才兵衛。以上である。同じ村から八軒祝を貰つてをり、他村から一軒貰つて居る。他村の松原村と記してあるのは、母の姉が嫁入つたところである。それから最後に、大沢才兵衛とあるのは、父の弟で、漆の芽で僕の腕に小男根を描いてくれた童子の父である。明治十五年頃の東北の村ではこんな程度であつた。
 僕は留学から帰つて来て、家兄に頼んで少しばかり父の日記から手抄して貰つたのであつた。そのうちに僕に銭《ぜに》を呉れたのを記したところが処々に見つかる。明治十九年[#「明治十九年」に白丸傍点]十月十五日曇り。二銭柿代富太郎、茂吉え遣《つかは》し。明治二十年[#「明治二十年」に白丸傍点]七月十五日。四銭茂吉え遣し。明治廿三年[#「明治廿三年」に白丸傍点]正月七日。十八銭、茂吉授業料正二二ヶ月分。三銭茂吉え遣し。十日休日。三銭茂吉え遣し。十五日休日。一銭茂吉え遣し。七月二日。五銭茂吉|書物代《しよもつだい》。十二日。四銭茂吉え遣し。十二月廿四日。二十二銭茂吉|薬代《くすりだい》。こんな工合である。ここに二十二銭茂吉薬代とあるのは、僕が絵具に中毒して黄疸《わうだん》になつたとき、父は何処《どこ》からか家伝の民間薬を買つて来てくれた。それを云ふのである。
 明治廿四年[#「明治廿四年」に白丸傍点]。二月十五日。一銭直吉笛代。五銭富太郎え遣し。三銭茂吉え遣し。三月三日。二十銭茂吉書物代画学紙共。十五日。一銭茂吉え遣し、廿八日。二銭茂吉え遣し。八月十四日。天気|吉《よし》。茂吉直吉おみゑ上山《かみのやま》行。九銭茂吉筆代。十月廿一日。天気|吉《よし》。七銭茂吉|下駄代《げただい》。廿二日。天気吉。広吉茂吉は半郷学校え天子《てんし》様のシヤシン下るに付而行《ついてゆく》。熊次郎紙つき。富太郎金三郎深田の葦刈《よしかり》。女中三人は午前|菜《な》つけ。午後|裏畑《うらはた》草取《くさとり》。伝太郎を頼《たのん》で十一俵買。
 合併になつた隣村の学校に、御真影《ごしんえい》がはじめて御さがりになつた時の趣で、それは明治廿四年十月廿二日だつたことが分かるが、これはすべて陰暦の日附である。大雪にならぬ前に深田の葦を刈り、菜を漬け、畑の草を取つて播《ま》くべきものは播き、冬ごもりの準備をする光景である。父の日記は、大凡《おほよそ》農業日記であつて、そのなかに、ぽつりぽつり、僕に呉れた小遣銭《こづかひせん》の記入などがあるのである。明治廿二年の条《くだり》に、宝泉寺え泥ぼう入《はひり》、伝右衛門|下男《げなん》刀|持《もち》て表より行《ゆく》。熊次郎|槍《やり》持《もち》て裏より行、などといふ事件の記事もある。これは、宝泉寺住職|※[#「宀/隆」、第4水準2−8−9]応《りゆうおう》和尚が上京して留守中、泥棒が入らうとして日本刀で戸をずたずたに切つた。倔強《くつきやう》の若者が二人ばかり宿《とま》つてゐたが、恐れてしまつて何の役にも立たなかつた時の話である。伝右衛門は祖父の名で未だ存命中であつた。熊次郎は父の名である。
 一時剣術に凝つたり、砲術を習つたりした名残《なごり》で、どちらかといへば、さういふ時に槍など持つことを好んでゐた。父はさういふとき『得手《えて》まへ』といふ言葉を好《よ》く使つた。

    10[#「10」は縦中横] 念珠集跋

「念珠集」は、所詮《しよせん》『わたくしごと』の記に過ぎないから、これは『秘録』にすべきものであつた。それであるから、僕の友よ、どうぞ怒《いか》らず
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