くのである。山の麓の道には高低いろいろの石が地面から露出してゐる。石道であるから、提灯の光が揺いで行くたびにその石の影がひよいひよいと動く。その石の影は一つ二つではなく沢山にある。僕が父の背なかで其《それ》を非常に不思議に思つたことをおぼえてゐる。
 まだ夜中にもならぬうちに家を出て夜通《よどほ》し歩いた。あけがたに強雨《がうう》が降つて合羽《かつぱ》まで透した。道は山中に入つて、小川は水嵩《みづかさ》が増し、濁つた水がいきほひづいて流れてゐる。川幅が大きくなつて橋はもう流されてゐる。山中のこの激流を父は一度難儀してわたつた。それからもどつてこんどは母の手を引《ひ》かへて二人して用心しながら渡つたところを僕はおぼえてゐる。それから宿へ著くとそこの庭に四角な箱のやうなものが地にいけてある。清い水がそこに不断にながれおちて鰻《うなぎ》が一ぱい泳《およ》いでゐる。そんなに沢山に鰻のゐるところは今まで見たことはなかつた。
 帳場のやうなところにゐる女は、いつも愛想よく莞爾《にこにこ》してゐるが、母などよりもいい著物《きもの》を著てゐる。僕が恐る恐るその女のところに寄つて行くと女は僕に菓子を呉れたりする。母は家に居るときには終日|忙《せは》しく働くのにその女は決して働かない。それが童子の僕には不思議のやうに思はれたことをおぼえてゐる。
 僕は入湯してゐても毎晩|夜尿《ねねう》をした。それは父にも母にも、もはや当りまへの事のやうに思はれたのであつたけれども、布団のことを気にかけずには居られなかつた。雨の降る日にはそつとして置いたが、天気になると直ぐ父は屋根のうへに布団を干した。器械体操をするやうな恰好《かつかう》をして父が布団を屋根のうへに運んだのを僕はおぼえてゐる。
 或る日に、多分雨の降つてゐた日ででもあつたか、湯治客《たうぢきやく》がみんなして芝居の真似《まね》をした。何でも僕らは土戸《つちど》のところで見物してゐたとおもふから、舞台は倉座敷であつたらしい。仙台から湯治に来てゐる媼《おうな》なども交つて芝居をした。その時父はひよつとこ[#「ひよつとこ」に傍点]になつた。それから、そのひよつとこ[#「ひよつとこ」に傍点]の面《めん》をはづして、囃子手《はやして》のところで笛を吹いてゐたことをおぼえてゐる。
 父の日記に拠《よ》ると、青根温泉に七日ゐた訣《わけ》である。それから、明治二十|丁亥《ひのとゐ》年六月二日。晴天。夜おいく安産。と父の日記にあつて、僕の弟が生れてゐるから、青根温泉湯治中に母は懐妊《くわいにん》したのではないかと僕は今おもふのである。

    9 奇蹟。日記鈔

 不思議奇蹟などいふことは中江兆民には無かつた。それは開化を輸入するには物質窮理の学を先づ輸入せねばならぬから、兆民は当時『理学』と謂《い》つてゐる哲学をも輸入したが、いきほひ『奇蹟』を対治《たいぢ》する立場にあつた。けれども僕のやうな気の弱いものには、『奇蹟』は幾つもある。
 大正十三年の暮に火事があつて、僕の書籍なんどもあんなに焼け果ててしまつたのに、僕が郷里から持つて来て、新聞紙に一包にしてゐた祖父と父の覚帳《おぼえちやう》が煙にこげたまま焼けずにゐた。びしよぬれになつてゐた日本紙で綴《つづ》つた帳面を一枚一枚火鉢の火で乾かしながら、僕は実に強い不思議を感じてゐた。僕の甥《をひ》は、紙を乾かすのを手伝ひながら、『軽いものですから、二階の焼落ちるときに跳ね飛ばされたんでせう』などと云つた。また『被服廠《ひふくしやう》の時のやうにつむじ風が起つて吹き飛ばしたのかも知れませんね』『併《しか》しあんなぺらぺらな紙の帳面ですから、直ぐ焼けてもいい筈《はず》ですがね』などとも云つた。甥はなるべく物理学の理屈で説明をつけようとするのであるがそれでは分からない点が幾らもあつた。
 祖父のものは、俳諧《はいかい》連歌《れんが》か何かを記入したものであつたが、父のものには、『品々万書留帳《しなじなよろづかきとめちやう》』といふ、明治七|甲戌《きのえいぬ》年二月吉日に拵《こしら》へたものである。これは長兄が生れたとき、祝《いはひ》に貰《もら》つた品々などの記入から始まり、法事の時の献立《こんだて》、病気見舞の品々、婚礼のときの献立など、こまごまと記《しる》してあるので、僕は珍しいと思つて貰ひ受けたのであつた。例へば、明治廿三年二月廿三日夜より廿四日。盛華院清阿妙浄善大姉三回忌仏事献立控の廿四日十二人|前《まへ》の条《くだり》に、平(かんぴよう。いも。油あげ。こんにやく。むきたけ)。手しほ皿(奈良漬。なんばん)。ひたし(韮《にら》)。皿(糸こん。くるみ合)。巻ずし(黒のり、ゆば)。吸物(包ゆば二つ。しひたけ。うど)。あげ物(牛蒡《ごばう》。いも。かやのみ。くわい。柿)。煮
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