湧《わ》いてながれてゐるところだのをおぼえてゐる。もどりに志津《しづ》に一泊して、びしよぬれの衣服をほした。この日の行程十六里と称へられてゐる。
 第三日は、麗《うらら》かな天気に帰路に就いた。七八里も来たころ、父は茶屋に寄つてぬた餅《もち》を註文した。ぬた餅と謂《い》ふのは枝豆を擂鉢《すりばち》で擂《す》つて砂糖と塩で塩梅《あんばい》をつけて餅にまびつたものである。父は茂吉なんぼでも食べろと云つた。それから道中をするには腹を拵《こしら》へなければ駄目である。山を越す時などには、麓《ふもと》で腹を拵へ、頂上で腹を拵へて、少し物を持つて出懸けるといいなどといつてなかなか上機嫌であつた。
 もう山形《やまがた》の街《まち》も近くなつたころ、当時の中学校で歴史を担任してゐる教諭の撰した日本歴史が欲しくなり、しきりにそれを父にせがんだ。その日本歴史は表の様に出来てゐて工面のいい家の子弟は必ず持つてゐたし小学校でも先生がそれを教場に持つて来たりするので、僕は欲しくて欲しくて溜《た》まらなかつたものである。然るに父はどうしてもそれを買つて呉れない。僕らは山形の街に入つた。僕は幾たびも頼むが父は承諾しない。そのうち、書物の発行書店のまへを通りすぎてしまつた。僕はなぜ父はそんなに吝嗇《りんしよく》だらうかなどと思ひながら父の後ろを歩いたのであつた。

    7 日露の役

 日露戦役のあつたときには、僕はもう高等学校の学生になつてゐた。日露の役には長兄も次兄も出征した。長兄は秋田の第十七聯隊から出征し、黒溝台《こくこうだい》から奉天《ほうてん》の方に転戦してそこで負傷した。その頃は、あの村では誰彼《だれかれ》が戦死した。この村では誰彼が負傷したといふ噂《うはさ》が毎日のやうにあつた。恰《あたか》も奉天の包囲戦が酣《たけなは》になつた時であつただらう。夜半を過ぎて秋田の聯隊司令部から電報がとどいた。そのとき兄嫁などはぶるぶるふるへて口が利けなかつたさうであつた。父は家人の騒ぐのを制して、袴《はかま》を穿《は》きそれから羽織を著《き》た。それから弓張《ゆみはり》を灯《とも》し、仏壇のまへに据わつて電報をひらいたさうである。そのことを僕が偶※[#二の字点、1−2−22]《たまたま》帰省したりすると嫂《あね》などがよく話して聞かせたものである。
 父は若いころ、田植をどりといふのを習つてその女形《をんながた》になつたり、堀田《ほつた》の陣屋があつた時に、農兵になつて砲術を習つたり、おいとこ。しよがいな。三さがり。おばこ。木挽《こびき》ぶし。何でもうたふし、祖父以来進歩党時代からの国会議員に力※[#「やまいだれ+(「堊」の「王」に代えて「田」)」、124−下−1]《ちからこぶ》いれて、※[#「宀/隆」、第4水準2−8−9]応《りゆうおう》和尚から草稿をかいてもらつて政談演説をしたり、剣術に凝り、植木に凝り、和讃に凝り、念仏に凝り、また穀断《ごくだち》、塩断《しほだち》などをもした。
 僕のやうな、物に臆し、ひとを恐れ、心の競ひの尠《すくな》いものが、たまたま父の一生をおもひ起すと、そこにはあまり似寄《により》の無いことに気付くのであつたが、けれども是《これ》は自ら斯《か》う思ふといい。僕は父が痰《たん》を煩つたときの子である。生薑《しやうが》の砂糖漬などを舐《ねぶ》つてゐたときの子である。さういふ時に生れた子である。ただ、どちらにしても馬胎《ばたい》を出《い》でて驢胎《ろたい》に生じたぐらゐに過ぎぬとは僕もおもふ。

    8 青根温泉

 父は五つになる僕を背負ひ、母は入用《いりよう》の荷物を負うて、青根《あをね》温泉に湯治《たうぢ》に行つたことがある。青根温泉は蔵王山を越えて行くことも出来るが、その麓《ふもと》を縫うて迂回《うくわい》して行くことも出来る。
 父の日記を繰つて見ると、明治十九年のくだりに、『八月七日。雨降。熊次郎、おいく、茂吉、青根入湯に行《ゆく》。八月十三日、大雨降り大川の橋ながれ。八月十四日。天気|吉《よし》。熊次郎、おいく、茂吉三人青根入湯|返《がへ》り。八月廿三日。天気吉。伝右衛門《でんゑもん》、おひで、広吉、赤湯《あかゆ》入湯に行。九月|朔《ついたち》。伝右衛門、おひで、広吉、赤湯入湯かへる』。ここでは、父母が僕を連れて青根温泉に行つたことを記し、ついで、祖父母が僕の長兄を連れて、赤湯温泉に行つたことを記してゐる。父の日記は概《おほむ》ね農業日記であるが、かういふ事も漏らさず、極く簡単に記してある。青根温泉に行つたときのことを僕は極めて幽《かす》かにおぼえてゐる。父を追慕してゐると、おのづとその幽微になつた記憶が浮いてくるのである。
 父は小田原|提灯《ちやうちん》か何かをつけて先へ立つて行くし、母はその後からついて行
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