ぎ古稀《こき》をも過ぎた。父は上山町のとある店先で、感に堪へたといふ風で、蓄音機の喇叭《ラツパ》から伝つてくる雲右衛門《くもゑもん》の浪花節を聞いてゐたことがある。けれども、父はその蓄音機は窮理の学に本づくものだといふことなどは追尋《つゐじん》しようともしなかつた。スペクトラを退治した写象なども無論意識のうへにのぼつて来なかつたのである。
5 漆瘡
村の学校が隣村《りんそん》の学校に合併されて、そこに尋常高等小学校の建つたのは、森文部大臣が殺されて、一二年も経つたころであつただらう。
学校まで小《こ》一里あつた。雪の深い朝などには、せいぜい炭つけ馬が一つ二つ通るぐらゐなところで、道がまだ附いてゐない。雪が腰を没すといふやうなことは稀《まれ》でなかつた。子供等は五六人固まつてその深雪を冒して行くのであるが、ひどく難儀をしたものである。途中で泣出して学校に行著くまで黙らなかつた子などもゐた。
けれどもそこを辛抱すれば、柳に銀色の花が咲くころから早春が来て、雪の降るのがだんだん少くなつて来る。それから一月も立てば、麗《うらら》かな天気が幾日も続いて、雪がおのづと解けてくる。道は『雪解《ゆきどけ》みち』になつて、朝のうちは氷つても午《ひる》過ぎからは全くの泥道で、歩くのにまた難儀なのが幾日も幾日も続く。さういふ時には草鞋《わらぢ》は毎日一足ぐらゐづつ切れた。八つか九つになつた僕はかうして毎日学校へ通つた。
それを通越すと、道の片隅の方などに乾いたところが見え初めてくる。それが日一日と大きくなり、向うの方に見えてゐた乾いたところと連続してしまふ。さういふ土の乾いたところを、子ども達は『草履道』と云つて、そこを踏んで躍上《をどりあ》がつて喜んだ。
街道の雪が消え、日あたりの林の雪が消え、遠山を除いて、近在の山の雪が消えると、春が一時に来てしまふ気持である。太陽はまばゆいやうに耀《かがや》く。木の芽がぐんぐん萌《も》えはじめる。苞《つと》をやうやく破つたばかりの、白つぽいやうな芽だの、赤味を帯びたやうなものだの、紫がかつたものだの、子供等は道ぐさ食ひながらさういふ木の芽をぽきりと摘んで口の中で弄《もてあそ》ぶものもゐる。雲雀《ひばり》は空気を震動させて上天の方にゐるかとおもふと、閑古鳥《かんこどり》は向うの谿間《たにま》から聞こえる。楢《なら》、櫟《くぬぎ》の若葉が、風に裏がへるころになれば、そこに山蚕《やまこ》が生れて、道の上に黒く小さい糞《ふん》を沢山おとすのであつた。
五六人総勢十人ぐらゐの子供等が、さういふ日に恣《ほしいまま》に道草を食つて毎日おなじ道を往反《わうへん》する。蟻《あり》の穴に小便をしたり、蛇を殺してその口中《こうちゆう》に蛙《かへる》を無理におし込んだり、さういふ悪戯《いたづら》をしながら、時間が迫つてくると皆学校まで駈出して行つた。
然《しか》るにそれらの子供を威圧してゐる童子がひとりゐた。年はそのころ十一ぐらゐであつた。年かさも大きいし猛烈なところがあつて、村の学校の子供等を征服してゐた。周囲の子供等を引率して学校の授業も何もかまはずに山や沢に出掛けるので、そのやり方が何処《どこ》か猛烈なところがあつた。一度教員は忿怒《ふんど》して学校の梁木《はりき》にその童子をつるして折檻《せつかん》したことがある。それは森文部大臣が東北の学校を視察して、山形から上山に行くために早坂新道を通られるといふ日であつた。僕らは文部大臣を敬礼するために四五日の間その稽古《けいこ》をし、滅多に穿《は》くことのない袴《はかま》を穿き、中にはこれも滅多には著《き》ぬ襯衣《しやつ》を著たりなどして学校に行つたのであつたが、童子は何時《いつ》の間にかさういふ子供等を引率して山に遊びに行つてしまつた。それであるから、文部大臣を敬礼する時がだんだん近づいてくるのに子供等が帰つて来ないといふのであつた。併し文部大臣の敬礼がどうにか間に合つて、僕等は早坂新道に整列し、人力車で通つた文部大臣森有礼に小さいかうべをさげた。教員はその日は平穏な風をしてゐた。が、次の日にその童子を学校の梁木に吊《つる》して、鞭《むち》で続けざまに打つてみんなに見せたのであつた。それから間もなく森文部大臣が殺されたのだといふやうな気がする。さういふことは総《すべ》てまだ学校の合併されない前のことである。学校が合併されてからは、その童子もやはり学校に通つて、おのづから周囲の子供どもを威圧してゐた。
美しく晴れた朝、その童子は僕らを合せた七八人の中心になり、思ふ存分道ぐさを食ひながら学校へ出掛けて行つた。硫黄泉を源とする酢川《すかは》の橋から石を投げたりなんぞして、しばらく歩くと、道端に五六本の漆《うるし》の木がある。これは秋には真赤《まつか》に紅葉した
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