のであつたが、今は小さい芽が枝の尖端《せんたん》のところから萌えいでてゐる。
その漆の木のところに行くと、童子はみんなに列《なら》ぶやうに言附けた。そして自分で漆の芽を摘み取ると芽の摘口《つみぐち》から白い汁が出て来た。童子はみんなに腕をまくらせて、前膊《ぜんはく》の内面のところに漆の汁で女陰と男根とを画《ゑが》いた。女陰などといふとすさまじく聞こえるが、実は支那の古篆《こてん》の『日』の字のやうな恰好《かつかう》をしてゐるものに過ぎない。男根でもさうである。皆 〔Pra:putium〕 などが無く思ひきり単純化されたものである。中江兆民は癌《がん》に罹《かか》つて余命いくばくもないといふとき、「一年有半」といふ随筆を書いた。そのなかに慥《たし》か、『陰陽二物』の何のと云つて日本国を貶《けな》してゐたとおもふが、あれは無理だ。羅馬《ロオマ》は無論|巴里《パリ》に行つても、倫敦《ロンドン》、伯林《ベルリン》に行つても、さういふ邪気の無い絵はいくつも描いてある。この童子もただ邪気の無い絵をかいたに過ぎない。童子はそれでも漆の芽を幾つか取換へたりなどしてそれを描いた。描いて貰《もら》ふと皆《みんな》が声を挙げて笑つた。そして汁の乾くのを促すために息を吹きかけたりなどした。
大小いろいろと描いて来て、僕の腕に小さいのを描いてくれた。それは今からおもへば降誕八日めに割礼《かつれい》した耶蘇《ヤソ》の男根のやうな恰好であつたとおもへばいい。童子は最後に自分の腕に思ひ切り大きいのを描いておしまひにした。
次の日の朝みんなが集まつて腕の絵を見せ合つて大声で笑つた。絵のところだけが黒くなつて乾いたから、きのふに較《くら》べてはつきりして来てゐる。然るに僕のだけは絵のところが黒くならずに赤くなつて少し腫《は》れあがつてゐる。
その次の朝もみんなが絵を見せあふと、絵のところが益※[#二の字点、1−2−22]《ますます》黒くなつて乾いてゐるのに、ただ僕のだけはゆうべから癢味《かゆみ》が増して来、それに痛味《いたみ》が加はつて絵のところから汁が出はじめた。僕は授業をうける時にも癢いのと痛いのとでなやんで居た。さうすると、沢蟹《さはがに》をつぶしてつけると直るといふものがあつた。学校の裏は直ぐ沢になつてゐて、石を一寸《ちよつと》避《よ》けると小さい蟹を幾つも捕へることが出来る。僕はそれをつぶして臓腑《ざうふ》をかぶれかかつてゐる腕になすりつけたけれども、赤く腫《は》れて汁の出て来たところは今度は結痂《けつか》して行つた。
絵のところだけが黒く結痂したから、直つたのかといふとさうでない。それだから風呂《ふろ》に入つた時などに、秘《ひそ》かにその痂《かさぶた》を除いてみると、その下は依然として爛《ただ》れて居つて深い溝《みぞ》のやうになつてゐる。そして次の日には二たびそこに結痂《けつか》するといふ具合でなかなか直らない。ほかの子供等は、さういふ女陰・男根図のことなどはいつのまにか忘れて行つた。それはその筈で描いて貰つてからすでに一ヶ月余も経過したのであるから剥《は》げて取れてしまつたのが多かつた。縦《たと》ひ残つてゐてもそんなものはもう珍らしくはなかつた。ただ僕ひとりは毎日そのことで苦しんだ。そして痛いのを我慢して痂を除いてはそこに蟹の臓腑をつけてゐるに過ぎなかつた。痂を取つたところの溝がだんだん深くなるのに気付いてもそれを母や父に打明けることが出来ない。僕は空《むな》しく二月を過ごした。
けれども、或時たうとうそれを母から見付けられその成行を一々白状してしまつた。母は僕を父のところに連れて行つた。僕は恐る恐るすでに結痂した男根図を父に見せた。父も母も共に笑つた。叱《しか》られるつもりのところ叱られなかつたので僕も大きなこゑを立てて笑つた。その晩に父はどろどろした油薬《あぶらぐすり》のやうなものを拵《こしら》へて来て塗つて呉れた。さうすると二三日で痂が取れて行つた。そこへまた油薬のやうなものを塗つて呉れた。ひどく苦んだ漆瘡《しつさう》の男根図はかくのごとくにしてつひに直つた。瘡《かさ》は極く『平凡』に癒《い》えた。
『はじめは脱兎《だつと》の如く』と云つておいて、そして、『をはりは処女《しよぢよ》のごとし』と云ふあたりは、味《あぢは》つてみるとどうも旨《うま》いところがある。ただ余り陳腐になつてゐるから、今までそれを味はぬのであつた。その陳腐さは、レオナルド・ダ・ヴインチの画《ゑが》いた、モナ・リザ・ジヨコンダの像のやうなものであつた。そして僕の漆瘡《しつさう》物語の結末が消えるやうにして無くなつてしまつたときに、この諺《ことわざ》、警句をおもひ起したのであつた。おもひ起して味つてみるとどうも言方に旨いところがあつた。僕は心中ひそかに満足をおぼえ
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