も塵《ちり》の立ちのぼるやうなことはない。両側に密生した松林がしばらくの間続いてゐて寂しいやうである。人どほりの尠《すくな》い朝のうちで、街道は曲折のなるべく無いやうについてゐるから、遙《はる》か向うから人の来るのが見えてその人に逢《あ》ふまでには大分かかる。それからその人が後の林の角に見えなくなるまでも大分かかる。さういふ街道《かいだう》を父はいい気持で歩いて行つた。時節は初夏の頃ではなかつたらうかと思はれる。さういふ記憶は朦朧《もうろう》としてゐるが、松蝉《まつぜみ》でも鳴いてゐたやうな気持もする。
 上山《かみのやま》は温泉場で、松平藩主の居城《きよじやう》のあつたところである。御一新《ごいつしん》後はその城をこはして、今では月岡《つきをか》神社の鎮座になつてゐる。後年俳人の碧梧桐《へきごどう》がここを旅して、『出羽《では》で最上《もがみ》の上山《かみのやま》の夜寒かな』といふ句を残した。僕の村からこの広い新道を通つて上山まで小一里ある。そこまで村の人が大概買物などに行つた。
 さういふ街道を父は独占したやうなつもりで街道の真中《まんなか》を歩いて行つた。然るに稍《やや》しばらくすると、僕のうしろの方で人力車《じんりきしや》の車輪の軌《きし》る音がした。さうしてヘエ、ヘエ、といふ懸声《かけごゑ》がした。これは避《よ》けろといふ合図に相違ないから、父は当然避けるだらうとおもつてゐると依然として避けない。その刹那《せつな》にどしんといふ音がして人力《じんりき》の梶棒《かぢぼう》がいきなり僕の尻のところに突当つた。父は前にのめりさうになつた。
 すると父は突嗟《とつさ》に振向きしなに人力車夫の項《うなじ》のところをつかまへて、ぐいぐい横の方に引いたから人力車がくつがへりさうになつた。人力車夫は慌しく梶棒をおろさうとしたが父はなほ攻勢をゆるめない。人力車夫はつひに左方になつて倒れた。父は人力車夫の咽《のど》のあたり項のあたりを二三度こづいたが、それでも人力車夫は再び起き上つて父と争はうとした。そのとき乗つてゐた老翁が頻《しき》りにそれを止め父に詫《わび》をした。
 父は威張つた恰好《かつかう》で尻を高くはしより再び街道の真中を歩いた。その老翁を乗せて後から来た人力車は今度は僕らを避《よ》けて追越して行つた。追越すときに車夫は何か口の中で云つてゐたが父はそれにはかまはなかつた。僕は事件のあつた時父の背中で声を立てて泣いたことをおぼえてゐる。
 僕は明治四十二年に熱を病んで、赤十字病院の分病室にゐたときに、終日少年の頃の回想に耽《ふけ》つたことがある。そしてなぜあの時、人力車夫が梶棒をあんなにひどく突当てたであらうと考へたことがある。この文章を書いてゐる現在の僕がやはりそのことを思ふのと同じであつた。
 この街道の開通されるまでは、小山を幾つも越えて漸《やうや》く上山《かみのやま》に行著《ゆきつ》くのであつた。そこは如何《いか》にも寂しい山道で、夜遊《よあそび》に上山まで行く若者が時々道が分からなくなつて終夜そのあたりをさまよふといふやうなことがあつた。上山から魚を買つて夜道すると屹度《きつと》道が分からなくなるといふこともいはれた。夜更けてから、ほうい、ほうい、といふこゑがその山道あたりから聞こえるのはさう稀《まれ》なことではなかつた。
 一つの小山の中腹に大きな石が今でもある。それを狼石《おほかみいし》と称《とな》へてゐるのはそこには狼が住んでゐて子を生むと、村の人が食べ物を持つて行つてやる。小さい狼の子が出て来て遊ぶといふやうなことがあつて、夜半などに鋭い狼のこゑがよく聞こえたものださうである。その石の近くを上山へ行く山道が通つてゐた。この山道には狐狸《こり》の変化《へんげ》に関する事件がなかなか多く、母も度々さういふ話をした。
 そこへ御一新《ごいつしん》が来、開化のこゑがかういふ山の中にも這入《はひ》つて来るやうになつた。三島《みしま》県令が赴任するとたうとう小山の中腹を鑿開《きりひら》いて山形から上山を経て米沢《よねざは》の方へ通ずる大街道が出来た。早坂新道と村の人が称《とな》へたのはこの新道である。この新道は僕の生れるずつと前に開通されたものだが、連日の人足《にんそく》で村の人々の間にも不平の声が高かつた。ある時、県令の臨場《りんぢやう》の際に人足に寝そべつてゐる者のあるのを役人が咎《とが》めると、『人としてねぶたきことはあるものを吾《われ》にはゆるせ三島県令』といふ一首を差上げたなどといふ逸話も伝へられた。その男は僕が東京に来てからも年取つて未だ存命して居つたが余程前に亡くなつた。
 さて新道が出来ると人力《じんりき》が通る。荷車は干魚《ほしうを》などを積んで通る。郵便|脚夫《きやくふ》が走る。後には乗合馬車《のりあ
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