大雪にならぬ前に、その鯉池の浚《さら》ひをする方がいいといふので、寒さの厳しい日に父は若者を督促して働いたのが本《もと》で、たうとう痰になつてしまつたといふことであつた。痰になつてからも父はやはり働いてゐた。僕の生れたのは父が痰になつてから後のことである。僕は小さい時は腺病質《せんびやうしつ》でひよろひよろしてゐた。父が痰でなやんでゐたときの子だからだなぞと祖母の云ふのを聞いたことがある。
父は痰持であつたから、水飴《みづあめ》だの生薑《しやうが》の砂糖漬《さたうづけ》などを買つてしまつて置いた。水飴は隣の宝泉寺からよく貰《もら》つて来たやうである。宝泉寺では村人が餅《もち》を搗《つ》くたびに持つて行くので、餅の食べきれないときにはそれを水飴に作つた。いつか宝泉寺では、琥珀《こはく》色の透とほる水飴が甕《かめ》に一ぱいあるのを持つて来て分けて呉れたことを僕は覚えてゐる。父の居ないときに時折兄と僕とがその水飴を盗んで嘗《な》めた。
或る時僕は生薑の砂糖漬をも盗んで来たことがあつた。そして砂糖だけを嘗めて生薑を外に棄《す》てた。外には雪が一めんに降《ふり》積つて居る。生薑が雪の上におちると三四の雀《すずめ》が勢よく飛んで来てそれを争つたことをおぼえてゐる。痰と生薑とに何かの因縁《いんねん》があるやうにも思へたがそれが穉《をさな》い僕には分からない。それから大分《だいぶ》経《た》つて僕は東京にのぼるやうになり、好んで浪花節《なにはぶし》を聞いた。浪花節かたりは、『せめて生薑の一へげも』といふことをうたふ。その度ごとに僕は父の痰のことを追憶した。医学を学んでから僕は漢方《かんぱう》または民間|医方《いはう》に興味をもつたこともある。さて生薑のことを注意するに、『思※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]《しばく》の云《いは》く。八九月に多く食へば、春にいたりて眼を病む。寿《いのち》を損じ筋力を減らす。妊婦《はらみをんな》これを食へばその子|六指《むつゆび》ならしむ』なんぞと説明したのもあつて僕を驚かしたが、多くの漢医方には、生薑に開痰《かいたん》の作用あることが説いてある。痰火《たんくわ》の条《くだり》に薑汁を用ゐることもあり、治[#二]寒痰咳嗽[#一]といふ句もあり、導痰丸《だうたんぐわん》、導痰|湯《たう》などの処方もあるので、父が砂糖生薑をしまつてゐたことが、何だか一種の哀《あはれ》ふかいやうな気持で僕の心に浮んでくることもあつたのである。
父は三山《さんざん》や蔵王山《ざわうさん》あたりを信心して一生|四足《しそく》を食はずにしまつた。僕の寝小便がなかなか直らぬので、牛《ぎう》が好い、馬《ば》が好い、犬《いぬ》が好いなどと教へて呉れるものがあつたが、父はわざわざ町まで行つて、朝鮮|人蔘《にんじん》二三本買つて来てくれたことをおぼえて居る。それであるから、兄が十五になつて、若者仲間に入つてから間もなく、大雪が降つてそれの固まつた或る晩に、鮭《さけ》の頭に爆発する為掛《しかけ》をして、狐《きつね》六|疋《ぴき》を殺した。六疋の狐は銘々行くところに行つて死んでゐたさうである。垂れてゐる血を辿《たど》つて行くと其処《そこ》に狐が死んでゐるので、一つなどはそれでも、林の中の泉の傍まで行つてゐたさうである。兄達五六人の若者は夜業の藁為事《わらしごと》が済んでからそれを煮て食つた。兄は爆発為掛の旨《うま》く行つたことを得意に話しながら、どうも少し臭くて駄目だな。牛《ぎう》よりも旨くないな。こんなことを話した。それを次の日父が聞きつけて非常に怒り、何でも狐のことをひどく勿体無《もつたいな》がつたことをおぼえてゐる。
父は痰を病んでから、いつのまにか何かの神に願《ぐわん》を掛けて好きなものを断つことを盟《ちか》つた。ただ、酒も飲まず煙草《たばこ》も吸はぬ父は、つひに納豆《なつとう》を食ふことを罷《や》めた。幾十年も納豆を食ふことを罷めて、もう年寄になつてから或る日納豆を食つたが、どうも痰に好くない。また痰がおこりさうだなどと云つたことがある。父はその時から命のをはるまで納豆を食はずにしまつただらうと僕はおもふ。父は食べものの精進《しやうじん》もした。併《しか》しさういふ普通の精進の魚肉《ぎよにく》を食はぬほかに穀断《ごくだち》、塩断《しほだち》などもした。みんなが大根を味噌《みそ》で煮たり、鮭の卵の汁などを拵《こしら》へて食べてゐるのに、父はただ飯に白砂糖をかけて食べることなどもあつた。併し僕には何のために父がそんな真似を為《す》るかが分からなかつた。
3 新道
六歳ぐらゐになつた僕を背負つて、父は早坂新道《はやさかしんだう》を越えて上山《かみのやま》へ向つて歩いた。雨あがりの道はよく固まつて、天がよく晴れて
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