と溯《さかのぼ》るであらう。深夜人無きに乗じてその堤防を破つて、故意に酸い水を淡水の川に灑《そそ》いだものがあつた。その酸い水が混じると、魚の族は真黒になるほど群がつて川下へ川下へとくだる。それを梁《やな》で取れるだけ取つて、暁にならぬうちに家に帰つて知らんふりしてゐるのである。これを『酢川落《すかお》ち』と唱へる。
暁に先立つて草刈《くさかり》に行く農夫の一人二人がそれを見つけて、村役場へ届ける。村役場では人足《にんそく》を出して堤防の修理をする。然るに一方では村の老若男女童男童女が我先にと川へ出かけて行つて、弱り切つてゐる魚を捕まへるので、つまり余得《よとく》にありつくのである。この『酢川落ち』はさうたびたびは無い。また村人も一種の楽みとおもふので、役場がそれを大目に見て、罪人を発見しようと努めるやうなことはない。『酢川《すか》おとし』の行為は法に触れるべきものであるが、『酢川おち』の現象は村民にとつては無くてはならぬ、謂《い》はば一つの年中行事の如き観を呈するに至つた。それがずつとずつと古い代から続いて来たのである。泳《およぎ》を知らない、常には川遊などをしない八十吉が、この『酢川おち』の日に、ただのひとりで川に遊びに来てゐたのである。
八十吉は終《つひ》に蘇らなかつたことを下男が来て話して呉れた。八十吉のこの事があつた時父は他村に用足しに行つて、日暮時に入つてやうやく帰つて来た。父の顔を見るや否や、あわてて僕は父の側に行き、八十吉の溺《おぼ》れる有様、それから八十吉を水から揚げてから、藁火《わらび》をどんどん焚《た》いて、身の皮のあぶれる程八十吉を温めたこと、八十吉の肛門《かうもん》から煙管《きせる》を入れて煙草《たばこ》のけむりを骨折つて吹き込んだこと、さういふことを息をはずませながら話をした。
『八十吉の尻《けつ》の穴さ煙管が五本も六本もずぼずぼ這入《はひ》つたどつす。ほして、煙草の煙《けむ》が口からもうもう出るまで吹いたどつす』
かういふ僕の話を聞いてゐた父は、どうしたのか一ことも云はずにいきなりと僕をにらめつけるやうな顔をして、僕は予期しない父の此の行為に驚愕《きやうがく》するいとまもなく、父はあたふたと著物《きもの》を著換へて出て行つてしまつた。祖母も母もみんな八十吉の家につめ切つてゐた時である。
僕は父の歿した時、民顕《ミユンヘン》の仮寓《かぐう》にあつてこのことを想出《おもひだ》して、その時の父の顔容を出来るだけおもひ浮べて見ようと努めたことがあつた。帰国以来僕は心に創痍《きず》を得て、いまだ父の墓参をも果《はた》さずにゐる。家兄の書信に拠《よ》ると八十吉は十二で死んでゐるから僕の十一のときであつた。八十吉は金瓶村宝泉寺に葬られてあつて、円阿香彩童子といふ戒名をもつてゐる。(大正十四年九月記)
2 痰
父は長い間、痰《たん》を煩つてゐた。小男で痩《や》せた父が咳込《せきこ》んで来ると、少し前かがみになつて、何だかお腹《なか》の皮でも捩《よぢ》れるやうに咳込むのがいかにも苦しさうであつた。ところが、その苦しさうな咳が一とほり済むと、イツヘ、イツヘ、イツヘ、イツヘといふ咳が幾つか続いて、それから、イツシ、イツシ、イツシ、イツシといふ咳になる。その工合がどうもをかしいので、幼童の僕がその真似《まね》をしたものであつた。仏壇の勤めなどがまだ終らぬうちに父が咳込んで来てさういふ異様な咳になると、勝手元で働く母の傍にくつついてゐながら僕がイツシ、イツシ、イツシ、イツシといふ真似をして、母から睨《にら》まれたりするけれども、母もたうとう笑つてしまふのであつた。
年に一度、多くは冬を利用して人形芝居が村にかかつた。夕飯を終へてから、翁媼《をうあう》も、婦《をんな》も孫も、みんな、深く積つた雪がかんかんと氷る道を踏んでその人形芝居を見に行つた。時にはひどい吹雪の夜のことなどもあつた。その人形芝居には、美しい娘をさらつてゐる大猿を一人の侍《さむらひ》が来て退治したり、松前屋|五郎兵衛《ごろべゑ》が折檻《せつかん》されて血を吐いたり、若い女房がひとりの伴を連れて峠を上つて行くと、そこに山賊《さんぞく》が出て来たりした。杉の木立の向うは暗闇《くらやみ》で星が輝いてゐるやうにも拵《こしら》へてあつた。ある晩に父は僕を背中に負つてその人形芝居を見に行つたときにも、父はひどく咳込んでいかにも困つた様子であつたが、僕がまたそれの真似して、それでも穉《をさな》ごころに悪いことをしたやうな気持でゐたことをおぼえてゐる。
父の痰持《たんもち》は僕の生れる前からであつた。祖父が隠居してから楽みに飼つた鯉《こひ》が、水が好いので非常に殖え、大きな奴がいつも沢山泳いでゐた。雪がもう二三度降つてからのことであつたさうである。
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