吉薬代とあるのは、僕が絵具に中毒して黄疸《わうだん》になつたとき、父は何処《どこ》からか家伝の民間薬を買つて来てくれた。それを云ふのである。
 明治廿四年[#「明治廿四年」に白丸傍点]。二月十五日。一銭直吉笛代。五銭富太郎え遣し。三銭茂吉え遣し。三月三日。二十銭茂吉書物代画学紙共。十五日。一銭茂吉え遣し、廿八日。二銭茂吉え遣し。八月十四日。天気|吉《よし》。茂吉直吉おみゑ上山《かみのやま》行。九銭茂吉筆代。十月廿一日。天気|吉《よし》。七銭茂吉|下駄代《げただい》。廿二日。天気吉。広吉茂吉は半郷学校え天子《てんし》様のシヤシン下るに付而行《ついてゆく》。熊次郎紙つき。富太郎金三郎深田の葦刈《よしかり》。女中三人は午前|菜《な》つけ。午後|裏畑《うらはた》草取《くさとり》。伝太郎を頼《たのん》で十一俵買。
 合併になつた隣村の学校に、御真影《ごしんえい》がはじめて御さがりになつた時の趣で、それは明治廿四年十月廿二日だつたことが分かるが、これはすべて陰暦の日附である。大雪にならぬ前に深田の葦を刈り、菜を漬け、畑の草を取つて播《ま》くべきものは播き、冬ごもりの準備をする光景である。父の日記は、大凡《おほよそ》農業日記であつて、そのなかに、ぽつりぽつり、僕に呉れた小遣銭《こづかひせん》の記入などがあるのである。明治廿二年の条《くだり》に、宝泉寺え泥ぼう入《はひり》、伝右衛門|下男《げなん》刀|持《もち》て表より行《ゆく》。熊次郎|槍《やり》持《もち》て裏より行、などといふ事件の記事もある。これは、宝泉寺住職|※[#「宀/隆」、第4水準2−8−9]応《りゆうおう》和尚が上京して留守中、泥棒が入らうとして日本刀で戸をずたずたに切つた。倔強《くつきやう》の若者が二人ばかり宿《とま》つてゐたが、恐れてしまつて何の役にも立たなかつた時の話である。伝右衛門は祖父の名で未だ存命中であつた。熊次郎は父の名である。
 一時剣術に凝つたり、砲術を習つたりした名残《なごり》で、どちらかといへば、さういふ時に槍など持つことを好んでゐた。父はさういふとき『得手《えて》まへ』といふ言葉を好《よ》く使つた。

    10[#「10」は縦中横] 念珠集跋

「念珠集」は、所詮《しよせん》『わたくしごと』の記に過ぎないから、これは『秘録』にすべきものであつた。それであるから、僕の友よ、どうぞ怒《いか》らず
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