に欲しい。
ミユンヘンに留学中は、主に実験脳病理学のことをやつた。少い暇に読む書物も、それから考へることもさういふことが主《おも》になつてゐた。〔ischa:mische Zellvera:nderung〕 といふやうなこと、Kolliquations−Nekrose とか、koagulierende Nekrose とか、例へばさういふ概念が頭を領してゐるのであつた。そのまた暇に僕は心理書を読んでみた。Hylopsychismus といふことだの、Zerlegung der Gignomene とか、Unbewusstheit der Reduktionsbestandteile とかいふことだの、さういふことが頭を悩ましたのであつた。
ところが、僕の下宿に馬琴《ばきん》のものが置いてあつた。もう古びて、何代《なんだい》もの留学生が異郷の寂しさをそれで紛らしたといふことを証拠立ててゐた。馬琴のものなどはこれまで読んだことのない僕が、ある時ふとそれを読んでみた。久遠《くをん》のむかしに、天竺《てんぢく》の国にひとりの若い修行《しゆぎやう》僧が居り、野にいでて、感ずるところありてその精《せい》を泄《もら》しつ、その精草の葉にかかれり。などといふやうなことが書いてあつた。僕は計らずも洋臭を遠離《をんり》して、東方の国土の情調に浸つたのであつた。さういふ心の交錯のあつたときに、僕は父の訃音《ふおん》を受取つた。七十を越した齢《よはひ》であるから、もはや定命《ぢやうみやう》と看《み》ても好《よ》いとおもふが、それでもやはり寂しい心が連日|湧《わ》いた。夜の暁方《あけがた》などに意識の未だ清明《せいめい》にならぬ状態で、父の死は夢か何かではなからうかなどと思つたこともある。併《しか》し目の覚めて居るときには、いろいろと父の事を追慕した。それは尽《ことごと》く東海《とうかい》の生れ故郷の場面であつた。「念珠集」は所詮、貧しい記録に過ぎぬ。けれどもさういふ悲しい背景をもつてゐるのである。僕を思つてくれる友よ。どうぞ怒《いか》らずに欲しい。
大正十四年八月に、比叡山《ひえいざん》のアララギ安居会《あんごくわい》に出席して、それから先輩、友人五人の同行《どうぎやう》で高野山《かうやさん》にのぼつた。登山自動車の終点で駕籠《かご》に乗らうとした時に、男が来て北室院といふ宿坊《しゆ
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