置いて、そして生きられるだけ生きようと覚悟したのであつた。それであるから、極力友人に会ふことを厭《いと》うて、静かに身を保たむとしたのであつた。赤彦君は四五月の候になれば余病を退治して、今度は楽しく友にも会はうと思つてゐたのである。赤彦君はその夜こんなことをも云つた。『伴さんは本当に熱心だからな。己ははじめは知らなんだ。一遍見て貰《もら》つたらもう伴さんに限るやうになつた』『自分ひとりではと思ふときには屹度《きつと》ほかの人にも相談してなあ』『腕はあるんだからなあ』などとも云つたさうである。
二
廿一日に、中村憲吉君は校歌の話を為出《しだ》した。校歌といふのは、秋田県|角館《かくのだて》中学校の校歌を平福百穂画伯から嘱付して赤彦君に作つて貰ふことになつてゐた。それを謂《い》ふのである。すると赤彦君は、『北日本の脊梁《せきりやう》の。千秋|万古《ばんこ》やまのまに。偉霊の水を湛《たた》へたる。田沢の湖《うみ》の水おちて。鰍瀬川《かじかせがは》とながれたり』云々と低いこゑで云ひ、憲吉君の批評をも求め、もう七分どほりは出来てゐることを云つた。その時、藤沢古実君が傍《そば》から
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