た。旅舎《やど》に著いて、夕餐《ゆふさん》を食し、そして一先づ銘々|帰家《きか》することに極《き》めた。それまで湯に入るものは湯に入り、将棋を差すものは将棋を差した。心が妙に興奮してゐて、思はぬ所ではしやいだりしたのであつた。

     五

 その夜十一時幾分かの上諏訪《かみすは》発の汽車で、中村憲吉君は摂津に向ひ、僕等は東京に立つた。平福百穂、岩波茂雄、土屋文明、高田浪吉の諸君同道である。
 朝六時頃新宿駅に著くと、家根瓦《やねがはら》の上に霜が真白《ましろ》に置いてゐた。今ごろなんだつてこんなにきびしい霜だらう。さうおもひながら僕は家に著いた。家には父母も妻も誰もゐなかつた。これはゆうべ妹の死報に接して、その方につめかけてゐたのであつた。妹は、ゆうべ僕らが上諏訪を立つて少し来たころに歿したのである。僕は実に混乱せんとする心を無理におししづめて暫《しばら》く眠つた。それから外来診察をし、溜《た》まつてゐる手紙端書を少し書いた。そこへ、今井|邦子《くにこ》さんから電話がかかつて、どうしても一度、島木先生にお目にかかりたいといふことであつた。僕は直ぐそのことを否定した。今井さんは涙を
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