|妻《さい》に書かせてみます』こんなことを赤彦君は俯伏《うつぶ》しながら云つたので、皆が愁眉《しうび》を開いて喜んだのであつた。けれども赤彦君は、このごろ眠りと醒覚《せいかく》との界《さかひ》で時々錯覚することがあつた。ゆうべあたりも、『おれの膝《ひざ》に今誰か乗つてゐなかつたか』などと問うたさうであつた。
そこで、赤彦君は皆《みんな》に茶を饗することを命じた。その間に赤彦君は冷水を音させながら飲干《のみほ》して、『実に旨《うま》い。これが一等です』などとも云つた。僕は、この分ならば赤彦君の寿命は三月一ぱいは保つであらう。そして短歌の方の製作も幾つか出来るだらうと思つて、秘《ひそ》かに喜んだのであつた。そして、四月の四日過ぎには少し暇になるであらうから、その時また出直して来て邪魔するなどとも云つた。けれども僕の眼識は欲目のために鈍つてゐて、赤彦君は三月尽《さんぐわつじん》を待たずに歿《ぼつ》し、短歌の製作も『犬の歌』以後は絶えたのであつた。
僕等は赤彦君のまへに偽《いつはり》を言ひ、心に暗愁の蟠《わだかま》りを持つて※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]蔭《しいん》山房を辞し
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