それから脈搏、呼吸の方を初瀬さんに看《み》てもらふやうに頼み、僕もそのまま布団をかぶつてしまつた。さて小《こ》一時間も経つたかとおもふころ、しきりに赤彦君を呼ぶこゑがする。それは不二子さんのこゑである。それから初瀬さんのこゑである。それから周介君のこゑである。しかし、赤彦君は一言もそれに返辞をしない。呼ぶこゑは幾たびか続いて、それに歔欷《すすりなき》のこゑが加はつた。僕は夢現《ゆめうつつ》の間にそれを聞いてゐるのであるから、何か遠い世界の出来事のやうに思へる。痛切に感じてゐるやうで、実は痛切に感じてゐない。けれども暫くそれを聞いてゐるうちに、僕は反射的に身を起して布団から顔を出した。これは何かの会釈でもするつもりであつたらしい。然るに僕が顔をあらはした時にはみんなの言葉が既に絶えてもとの静寂に帰つてゐる。僕は急劇に明るい電燈の光を目に受けたので、一語も発せずに二たび布団をかぶつてしまつた。布団をかぶつてしまふと意識がだんだん晴れて来るのをおぼえた。そして先程の赤彦君を呼ぶこゑのことが写象となつて意識にのぼつて来た。気丈な不二子さんは僕等のまへにつひぞ今まで涙を見せたことはなかつた。これは侍《さむらひ》の女房の覚悟に等しい心の抑制があつたからであらう。然るに今は他人の尽《ことごと》くが眠に沈んでゐる。赤彦君の枕頭に目ざめてゐるものは皆血縁の者である。そして終焉《しゆうえん》に近い赤彦君を呼ぶこゑが幾つ続いても、赤彦君はつひに一語もそれに答ふることをしない。血縁の者はいま邪魔なく、障礙《しやうがい》なくして慟哭《どうこく》し得るのである。僕は布団をかぶりながら両眼に涙の湧《わ》くのをおぼえてゐた。間もなく※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]鳴《けいめい》がきこえ、暁が近づいたらしい。その頃から僕は二たび少しく眠つた。

     七

 廿七日の午前六時半ごろ、主治医と二人で診察すると、脈搏はもはや弱く不正で結代《けつたい》があつた。息も終焉《しゆうえん》に近いことを示してゐた。そこで主治医の注意によりみんなが枕頭に集つた。赤彦君は稀《まれ》に歯ぎしりをし、唸《うな》つた。その唸《うなり》が十ばかり続くと、息が段々幽かになつて行つた。そして消えるやうになるかとおもふと、また唸がつづいた。それがまた十ばかりつづいてまた息が幽かになつた。そのうち八時になつたので、みん
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