たやうに賀茂真淵等が考へて居り、古義、考弁、樋口氏等もさう考へてゐる。そして此説は絶待には否定し難いけれども、万葉の歌を見れば必ずしもさうでなく、娘子が其時石見にとどまつてゐたと見ることも出来るのである。依羅氏は、新撰姓氏録摂津国皇別に、依羅《ヨサミノ》宿禰の条に、日下部宿禰同祖、彦坐命之後也とあり、又、河内国諸蕃、依羅《ヨサミノ》連の条に、百済国人素弥志夜麻美乃君之後也とある。依羅娘子といづれかの関係があるのではなからうか。石見八重葎の著者は、娘子は石見の出だが、人丸の妻となるにつき、依羅氏を名のつたのであると記載してゐるが、此は想像である。
右の如く可能の場合の五人の妻を考へたが、軽娘子[#「軽娘子」に傍点]・羽易娘子[#「羽易娘子」に傍点]・第二羽易娘子を同一人だとし[#「第二羽易娘子を同一人だとし」に傍点]、石見娘子[#「石見娘子」に傍点]・依羅娘子を同一人だとせば[#「依羅娘子を同一人だとせば」に傍点]、併せて二人といふことになる[#「併せて二人といふことになる」に傍点]。真淵の依羅娘子観には或程度まで同情せねばならぬ点があるが、人麿が石見に行き、京に妻を残して置いて、直ぐ妾《おもひめ》を得たといふのもどうかとおもふし、特に、山田孝雄博士の説に従つて、妻といふ字は嫡妻に用ゐるものだとせば([#ここから割り注]講義巻第二[#ここで割り注終わり])、やはり石見娘子・依羅娘子同人説の方が自然である。
(六)[#「(六)」は縦中横] 巻四の人麿妻。 巻四(五〇四)、柿本朝臣人麿の妻の歌一首の妻は誰か。不明だが、代匠記では、はじめの妻と考へて居る。さて、そのほかに、贈答の恋歌を咏んだ程度、或はいひわたつた程度のものはこれは幾人あつてもいいので、古義でもまた岡田正美氏もさう考へてゐる。柿本朝臣人麿歌集出といふのの中には恋歌が可なりあり([#ここから割り注]巻九、一七八二、一七八三参照[#ここで割り注終わり])、その中に実際の人麿作もあり得るとせば、以上の二人の妻のほかに幾人かの恋人がゐたものと想像してかまはぬのである。人麿の妻について先進の考を次に列記する。
人麿勘文に云。『人麿有[#二]両妻[#一]。其故者石見国依羅娘子者已為[#二]後家[#一]。妻死之後泣血哀慟作歌者別妻。然而此万葉四巻作歌者両人之中何婦乎。付詠歌者依羅娘子歟、尚又不審』。
これは二人
前へ
次へ
全8ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング