割り注終わり]然れば此妻は大宝慶雲の間に迎へられたるべし』とあるのは期せずして慶雲元年頃の愚案と略一致した。
 (四)[#「(四)」は縦中横] 石見娘子。 人麿が石見国から妻と別れて上り来る時詠んだ長歌が三首([#ここから割り注]巻二、一三一、一三五、一三八[#ここで割り注終わり])と反歌が合せて、六首([#ここから割り注]巻二、一三二、一三三、一三四、一三六、一三七、一三九[#ここで割り注終わり])載つてゐる。歌の内容が少しづつ違ふが、これを同一の女と看做し、石見にゐた、即ち人麿と一処に住んでゐたのだから、仮に便利のため石見娘子と名づける。長歌を見ると、『玉藻なす寄り寝し妹を露霜のおきてし来れば』。或は、『靡き寝し児を深海松《ふかみる》の深めて思《も》へどさ寝《ね》し夜は幾《いく》だもあらず』。或は、『玉藻なす靡き吾が寝し敷妙の妹が袂を露霜の置きてし来れば』云々と詠んで居り、石見ではじめて情交をなした女の如くにも見えるし、或は同行したとも考へられるが、当時の官吏などは妻を連れて行かぬのが普通であつただらうか。この女に就いてはなほ考弁の説が参考になるだらう。
 (五)[#「(五)」は縦中横] 依羅娘子。 右の人麿の歌の次に、柿本朝臣人麿の妻依羅娘子人麿と相別るる歌として、『な念ひと君はいへども逢はむ時いつと知りてか吾が恋ひざらむ』(巻二、一四〇)が載つて居り。また、人麿が石見で死が近づいた時に、『鴨山の磐根し纏《ま》ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ』(巻二、二二三)と咏み、その歌の次に、人麿が死んだ時、妻|依羅《よさみ》娘子の作れる歌二首として、『今日《けふ》今日《けふ》と吾が待つ君は石川の貝に[#ここから割り注]一に云ふ谷に[#ここで割り注終わり]交りて在りといはずやも』(二二四)。『直《ただ》の逢《あひ》は逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲《しぬ》ばむ』(二二五)といふのが出て居る。人麿の長歌で見ると、新たに情交を結んでまだ間もない女でもあるやうだが、その次に、『な念ひと』の歌が載つてゐるから、この万葉の記載に拠るとせば、第一の石見娘子《いはみのをとめ》[#ここから割り注]従便利名[#ここで割り注終わり]と依羅娘子《よさみのをとめ》とは同一人だといふことになる。そして石見で得た妻だといふことになる。それから、人麿が死んだ時に、依羅娘子は京師に止まつてゐ
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