点」は底本では「遠ふ点」]は、『現身と念ひし妹が灰にてませば』といふ句で結んだところにある。賀茂真淵は、以上の三娘子のうちを二人と考へ、軽娘子を妾と考へ、羽易娘子を嫡妻と考へた。そして羽易娘子と第二羽易娘子を同一人と看做し、それが嫡妻で人麿の若い時からの妻だらうから、この妻の死は、火葬のはじまつた、文武天皇四年三月([#ここから割り注]文式紀に、四年三月己未、道昭和尚物化。時七十有二、弟子等奉[#レ]遺火[#二]葬於粟原[#一]。天下火葬従[#レ]此而始也[#ここで割り注終わり])以前で、未だ火葬の無かつた頃と想像せられるから、『灰』字は何かの誤だらうと云つた。それに対して岸本由豆流は、『何をもて若きほどの事とせらるるにか。そはこの妻失し時若児ありて後にまた依羅《ヨサミ》娘子を妻とせられし故なるべけれど、男はたとへ五六十に及たりとも子をも生せ妻をもめとる事何のめづらしき事かあらん』([#ここから割り注]万葉集攷証第二巻三二一頁[#ここで割り注終わり])と駁してゐる。攷証の説を自然と看做して其に従ふとせば、以上の三娘子を同一人と考へて差支ない。([#ここから割り注]なほ、火葬の事。灰字のことにつき木村正辞、井上通泰の説があるから、別なところに記して置いた。[#ここで割り注終わり])この事は山田博士も、『余はこれは一人の妻の死を傷める一回の詠なりと信ず』([#ここから割り注]講義巻第二[#ここで割り注終わり])と論断してゐる。そしてこの人麿の妻の死を文武四年三月以後([#ここから割り注]仮に文武四年[#ここで割り注終わり])とし、それから依羅娘子を娶つたとし、人麿の死を和銅三年三月([#ここから割り注]寧楽遷都[#ここで割り注終わり])以前で、仮に和銅二年だとせば、その間和銅二年迄九年の歳月があるのだから、依羅娘子との関係も理解が出来、石見娘子([#ここから割り注]即ち依羅娘子[#ここで割り注終わり])と別れた時の長歌に、『玉藻なす寄り寝し妹』といひ、『さ寝し夜は幾《いく》だもあらず』といふ句が理解出来るのである。和銅二年を人麿四十七歳と仮定すれば依羅娘子を娶つたのは慶雲元年あたりで四十二歳位ででもあつただらうか。依羅娘子は歌も相当に作つた女であつた。代匠記、依羅娘子が人麿と別るる歌の処に、『人麿の前妻は文武天皇四年以後死去と見えたり。[#ここから割り注]中略[#ここで
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