接吻
齋藤茂吉
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)俯《ふ》して
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)稍|太《ふと》り肉《じし》で、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+加」、第3水準1−14−93]※[#「口+非」、第4水準2−4−8]《コーヒー》
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Gu:rtel〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
−−
一
維也納の 〔Gu:rtel〕《ギユルテル》 街は、ドナウ運河の近くの、フランツ・ヨゼフ停車場の傍から起つて、南方に向つて帯のやうに通つてゐる大街である。そこには、質素な装をした寂しい女が男を待つてゐたりした。金づかひの荒くない日本の留学生は、をりふし秘かにさういふ女と立話をすることもあつた。
西暦一九二二年の或る夏の夕に、僕はささやかな食店で一人夕食を済した。そして、いつしか一人で 〔Gu:rtel〕 街を歩いてゐた。僕はステツキも持たずに、かうべを俯《ふ》して歩いてゐる。街道が大きいので、人どほりがさう繁くないやうに思はれる。平坦な街道がいつの間にか少し低くなつて、そこを暫く歩いてゐる。
太陽が落ちてしまつても、夕映《ゆふばえ》がある。残紅がある。余光がある。薄明がある。独逸語には、〔Abendro:te〕 があり、ゆふべの 〔Da:mmerung〕 があつて、ゲーテでもニイチエあたりでも、実に気持よく使つてゐる。これを日本語に移す場合に、やまと言葉などにいいのが無いだらうか。そして、夕あかり。うすあかり。なごりのひかり。消のこるひかりなど、いろいろ頭のなかで並べたことなどもあつた。欧羅巴の夏の夕の余光はいつまでも残つてゐた。
僕は少し感傷的な気分になつて、ゆふべの余光のなかを歩いてゐる。さうすると、いそがしい写象が意識面をかすめて通る。いまやつてゐる僕の脳髄病理の為事《しごと》も、前途まだまだ遠いやうな気がする。まだ序論にも這入《はひ》らないやうな気がする。きのふの午後に見た本屋の蔵庫にあるあの心理の雑誌は、いくばくに値切るべきであらうか。あの続きを揃へようとせばライプチヒに註文して貰へばいい、日本にゐる童子は、学校でも遊び友だちは殆どないといふ妻からの便りがあつた。が、己《おれ》に似たのかも知れん。云々である。写象は起つて忽ち過ぎ去つた。実は千万無量の写象である。
僕はすでに長い長い 〔Gu:rtel〕 街をとほり過ぎようとしてゐた。ゆふべの余光が消え難いと謂つても、もうおのづから闇のいろが漂つてゐる。そのうち街は細つて来た。街の中に歩道があつて、そこに香柏樹の並木が遙か向うまで続いてゐる。香柏樹はすでに暗緑の広葉で埋つてゐる。香の高い花は遠のむかしに散つて、今は柔い青いいろの実を沢山につけてゐる。そしてアムゼル鳥の朗かなこゑは、ときどき夕の空気を顫動《せんどう》させてゐる。歩道にはところどころにベンチが据ゑてあつて、そこに人が群がつて腰をかけてゐる。老いたるも若きもみな貧しき人々である。墺太利の貨幣の為換《かはせ》相場はそのあたりはぐんぐん下つて行つた。僕はしづかなところから、ざわざわしてゐるところに来たやうな気がして少しいそぎ足で歩いた。小さい童子がちよこちよこ僕のそばに来て、をぢさん、切手持つてゐない。持つてゐたら僕に頂戴。などと云つたりした。けれども僕はさういふものにはかかはらずに歩いた。歩道はやや寂しくなつて人どほりも少い。闇のいろはおのづから濃くなつたけれども、西方の空には、まだ淡黄の光を再び絹ごしにしたやうないろが、澄み切つた蒼《あを》い空のいろにまじつて残つてゐる。
そこの歩道に、ひとりの男とひとりの女が接吻をしてゐた。
男はひよろ高く、痩せて居つて、髪は蓬々としてゐる。身には実にひどい服を纏《まと》ひゐる。うつむき加減になつて、右の手を女の左の肩のところから、それから左手は女の腰のへんをしつかりおさへて立つてゐる。口ひげが少し延びて、あをざめた顔をしてゐるのが少し見える。女はのびあがつて、両手を男の頸のところにかけて、そして接吻してゐる。女は古びた帽をかぶりゐる。それゆゑ、女の面相は想像だもすることは難い。
僕は夕闇のなかにこの光景を見て、一種異様なものに逢著したと思つた。そこで僕は、少し行過ぎてから、一たび其をかへり見た。男女は身じろぎもせずに突立つてゐる。やや行つて二たびかへりみた。男女はやはり如是《によぜ》である。僕は稍不安になつて来たけれ
次へ
全5ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング