ども、これは気を落付けなければならぬと思つて、少し後戻りをして、香柏の木かげに身をよせて立つてその接吻を見てゐた。その接吻は、実にいつまでもつづいた。一時間あまりも経つたころ、僕はふと木かげから身を離して、いそぎ足で其処を去つた。
 ながいなあ。実にながいなあ。
 かう僕は独語した。そして、とある居酒屋に入つて、麦酒《ビール》の大杯を三息《みいき》ぐらゐで飲みほした。そして両手《もろて》で頭をかかへて、どうも長かつたなあ。実にながいなあ。かう独語した。そこで、なほ一杯の麦酒を傾けた。そして、絵入新聞を読み、日記をつけた。僕が後戻して、もと来し道を歩いたときには、接吻するふたりの男女はもう其処にゐなかつた。
 僕は仮寓にかへつて来て、床のなかにもぐり込んだ。そして、気がしづまると、今日はいいものを見た。あれはどうもいいと思つたのである。

       二

 西暦一九二三年一月一日。けふは元日だと思つて床から辷《すべ》り出た。冷い水で髭を剃り、朝食をぐんぐん済まして、三十八番の電車に乗つた。電車はまだすいてゐる。ゆうべは除夜で、〔|Cafe'《カフエ》 Atlantis《アトランチス》〕 のなかに入り、真夜中に、恭賀新年の杯を高く挙げて、午前三時ごろ其処を出た。街はいつもよりも少し暖く、一めんに靄《もや》がかかつてゐた。中天の月はあたかも秋の月のやうであつた。ゆうべは豚の児を撫でてやつたから、今年は運が開けるだらう。こんなことを電車のなかで思つた。
 電車は Grinzing《グリンチング》 の終点で止まつた。そこで電車を降りて僕はゆきずりの男に道をたづねた。
「今日《こんにち》は。Kobenzl《コベンツル》 へまゐるには、どう行つたらいいのですか」かう僕は、帽子をとつてその男にたづねた。
「今日は。ああさうか。君は日本人か。君はドクトルSを知つてゐるか。渠《かれ》は戦争まへに僕の友達ぢやつた」その男はいきなり手を僕の肩にかけてこんなことを云つた。
「君は、Kobenzl に何しに行くか。散歩か」
「けふは幸福《さいはひ》をさがしに行きます」
「ははは。けふは上天気ぢやから、こんなに大きな幸福がおつこつてゐるぢやらう。ただあそこの飯《めし》は少し高いよ」
「そらあそこに祠《ほこら》が見えるぢやらう。あそこから左の方の道を何処までも行きたまへ」
「ありがたう。さよなら」
「さやうなら」
 こんな会話がとりかはされた。その男は、幸福に、so grosse といふ形容詞をつけて、両手を大きくひろげて見せたりした。
 Kobenzl は、維也納の背後に控へてゐる、いはゆる維也納森林帯《ウイネルワルド》の一部をなしてゐる山峰である。Kahlenberg《カーレンベルク》, Leopoldsberg《レオポルヅベルク》, Hermannskogel《ヘルマンスコーゲル》 などはその姉妹山峰と看做《みな》していい。維也納の背後に維也納森林帯のあるのは、伯林《ベルリン》の背後に緑林帯《グリユーネワルド》のあるにひとしい。ただ緑林帯の稍人工的なるに比して、維也納森林帯はおのづからなる寂びと落付とをもつてゐる。
 僕は Kobenzl にたどりついた。僕は太陽に向つて開運をいのつた。少年のころ、東海の生れ故郷でしたやうに、異邦の山上にたどりついて、目を瞑《つぶ》り首を垂れたのであつた。すると細い細い絹糸のやうな悲哀がこころの奥からいでてくるのをおぼえた。
 そこの家かげに残つてゐる堅雪のうへで、童子どもがスキーの真似ごとをして遊んでゐる。棒きれを足にくくり付けて辷る真似をするのであるから、童子どもはころころと転がつた。ここから見おろす維也納の街は、はるかに黄褐色の靄《もや》につつまれてゐる。その澄みがたき靄のなかに寺の尖塔がかすかに見えてゐる。午後一時ごろここの食店で簡単に午食を取つた。安料理の匈牙利《ハンガリー》グラシユが、一万五千クロネであるから、なるほど、「あそこの飯は少し高いよ」であつた。僕は食後の※[#「口+加」、第3水準1−14−93]※[#「口+非」、第4水準2−4−8]《コーヒー》をしづかに飲ほしてそこを出た。
 ある人の銅像などが立つてゐる。そこを過ぎると宏大な市有のホテルがあり、いま閉ぢてゐる。その裏は直ぐ森林に続いてゐる。道は落葉にうづまり、雪解の水で靴を没するほどである。僕は爪先あがりの山道をなづみながら上つて行つた。森林はおほむね落葉樹林であるが、ところどころに松の木が繁つてゐて松かぜのおとがする。のぼつて行く山道のあるところに水が湧いて、そこに少しばかり青い小草《をぐさ》が生えてゐる。「かりうどのみづ」などいふ小さい木札がぶらさがりゐる。
 そこを通つてのぼり行くと、規模が開けて大きくなつて来てゐる。木立が高く、ひろ
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