ミけるは我が接吻《くちづけ》する者は夫《それ》なり之を執《とら》へよ。直にイエスに来りラビ安きかと曰て彼に接吻《くちづけ》す。イエス彼に曰けるは、友よ何の為に来るや。遂に彼等進み来り手をイエスに措《かけ》て執《とら》へぬ。――馬太《マタイ》伝廿六章
 ここのところを描いたのであつた。ジオツトの、単純で古雅で佳麗で確かな技倆は、接吻の図に於てもその特徴を失はない。聖アンナの接吻図などは実に高い気品を有《も》つてゐると僕はおもふ。それのみではない。彼の四人の女の微笑をば、僕は日本国君子に伝へたいと思うたこともあつた。今はそれをも諦めて、泥濘の道を歩くにも憤《いきどほり》の起るやうなことはなくなつた。

       四

「接吻」の語はすでに陳腐に属する通語《とほりことば》であるが、佩文韻府にも、字典にも此の成語の無いところを見ると、どうも近世の造語ではあるまいかといふ気がする。僕は嘗てかう想像したことがある。「接吻」の語は、聖書の飜訳を企てたとき、上海あたりで新に造つた語ではあるまいか。すなはち、「接吻」の語は中華人の造つた飜訳語で、日本人はその儘採つて来たにすぎないとかう思つたのである。
 然るに近年版の広東話もしくは官話の漢訳聖書には、「接吻」ではなくて、「親嘴」としてある。たとへば、馬太伝第廿六章のところを次の如くに書いてゐる。売耶蘇※[#「漑」のさんずいに代えて「口」、317−下−11]也曾俾個記号※[#「にんべん+巨」、317−下−11]※[#「口+地」、317−下−11]話我所親嘴※[#「漑」のさんずいに代えて「口」、317−下−11]就係※[#「にんべん+巨」、317−下−12]咯※[#「にんべん+尓」、第3水準1−14−13]※[#「口+地」、317−下−12]捉住※[#「にんべん+巨」、317−下−12]※[#「口+羅」、第3水準1−15−31]就即刻到耶蘇処話夫子平安就同※[#「にんべん+巨」、317−下−12]親嘴。そこで僕は目下、もつと旧い漢訳聖書をしらべてもらふやうに友人に頼んでゐる。中華は古来いはゆる道徳の国であるから、たとひ古くから、「吻合」などの成語があつても之を接吻とは別の意味に用ゐ来つてゐた。以上の如く僕は想像したが、近頃日本で出来る漢和字典には既に「接吻」をば熟語として採録してゐる。そこで、ひよつとしたら「接吻」の語は、近世の和製語であるかも知れないと思ふこともある。なほしばらく考ふべきである。
「接吻」の語を、聖書では「くちづけ」と訓じてゐること上記のごとくである。しかし、古来日本では「口づけ」をば口癖《くちぐせ》と同じ意味に使つて来たけれども、接吻の意味には用ゐなかつたやうである。
 秘かに思ふに、接吻を「口づけ」と訓《よ》ませたのは、聖書の飜訳以来のことではなからうか。そこで、言海でも、辞林でも、言泉でも、稍古いところで雅言集覧、俚言集覧、倭訓栞あたりでも「口づけ」を接吻の義には取つてはゐない。然るに近頃新しい辞書が出来、古い辞書も増補された。その新しい辞書、増補された辞書を見ると、「口づけ」の条に、接吻に同じなどと瞭然書き記してあるやうになつた。中には、キス或は接吻に同じといふものもある。これは言語変遷の一つの例と謂つて好い。
 そんなら、接吻に相当する日本語は古来なかつたかといふに、それはあつた。而して、「口すひ」といふ語で代表されてゐた。秀吉が小田原陣から大阪へ送つた手紙に、「くちをすはせ」といふのがある。つまりあれである。それから、「二つ並んで舞ふ独楽《こま》のちよつとさはつて退いたるは人目忍んで口吸ひ独楽」などいふのもある。なほ端的なのには、「すはせつすひつしごきあひ」などといふのもある。なほ求むれば幾らでもある。ただ、これを万葉、古今、八代集、十三代集の和歌などに見出すことが出来ないのである。
 日本古来の文学には、「いざせ小床《をどこ》に」「七重《ななへ》著《か》るころもにませる児らが肌はも」「根白《ねじろ》の白ただむき」「沫雪《あわゆき》のわかやる胸を」「真玉手《またまで》、玉手さしまき、ももながに、いをしなせ」「たたなづく柔膚《にぎはだ》すらを」「にひ膚ふれし児ろしかなしも」などとは云つてゐても、官能を局部的にあらはす「口吸」の用語例は殆ど皆無と謂つてよい。おもふに古代の日本人も「口吸」をあからさまにいふことが、得手でなかつたのかも知れぬ、宇治拾遺あたりの「口すひ」の語は、近世の洒落《しやれ》文学の方嚮《はうかう》に発達して行つた。
 然るに、明治の文学は西洋流を交へたから、与謝野鉄幹さんあたりの国詩革新のこゑを急先鋒として、「あまき口づけ」といつた調べの短歌なり新体詩なりが、幾つも出た。
 接吻のことを漫然と書いて来て、〔sittliche Entru:stung〕
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