「谿間《たにま》を見おろすことが出来る。その谿間は一めんに落葉でうづまつてゐる。そして、しいんとして仕舞つて、今は一鳥だも啼かない。ここで満山の落葉を見おろしてゐる気持は、あはれな留学生の身の上でも、やはり感ずるに堪へたるものであつた。僕は、「空山寂歴として道心生ず」といふシナ文人の詩句などをおもひおこしながら、しばらくそこに停立してゐた。
 僕の上《のぼ》つて来た道はもうずつと細くなつて下の方に見えてゐる。そのとき、遙か下の方から人ふたりが上つて来た。男と女だ。その遠人《ゑんじん》目なしの男女が、少しづつ大きくなつて来るのを見てゐるのがいい気持である。すると、その二人は坂のなかばでひよいと抱合つて接吻をした。接吻はなかなか離れない。
 山水中に点出せられた豆人形ほどの人間の接吻はほとんど小一時間もかかつた。それから二人はほぐれて、だんだん僕のゐるところに近づいて来た。そして二人は、何かひそひそ話しながら僕の前を通つて行つた。
 その時、僕は何だか蔑《さげす》むやうな気持で二人を見つめてやつた。男は痩せて鋭い顔をしてゐる。山のぼりの仕度をして、背嚢《ルツクサツク》を負つてゐる。女は稍|太《ふと》り肉《じし》で、醜い顔をしてゐる。白いジヤケツを著て、おなじやうに背嚢《ルツクサツク》を負つてゐる。この男と女は、これから山越をして、この維也納森林帯の何処かに宿るつもりらしい。ふたりはいつしか谿の向うに見えなくなつた。
 僕は大いそぎで山を下りた。食店《レストラン》のあるところから以下には間道があるので、僕はそれを下りた。途中で、やはり間道を下りて来た巡査に追越された。午前にあれほど晴れてゐた空は曇つて、つひに細かい雨が降つて来た。電車に乗る。夕食。活動写真をみる。帰宅。体を拭く。寝。けふは元旦であつて、どうも僕はいいものを見た。そして、開運と何か関係があるやうな気がして、ねむりに落ちた。

       三

 埃及《エヂプト》カイロー博物館にある、王アメノフイス四世が児を抱いて接吻しようとしてゐる、細部が見えなくなつた石の彫刻も僕の注意を牽《ひ》いた。王も児も裸形のやうに見える。巌丈な椅子に腰かけてゐて、児は王の膝の上に乗りゐる。王は右の手で児の膝のところを抱き、左の手が児の後ろに廻つて頸《うなじ》のところを支へてゐる。そして接吻するところである。全体が単純でも、旅人の
前へ 次へ
全9ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング