ばくに値切るべきであらうか。あの続きを揃へようとせばライプチヒに註文して貰へばいい、日本にゐる童子は、学校でも遊び友だちは殆どないといふ妻からの便りがあつた。が、己《おれ》に似たのかも知れん。云々である。写象は起つて忽ち過ぎ去つた。実は千万無量の写象である。
僕はすでに長い長い 〔Gu:rtel〕 街をとほり過ぎようとしてゐた。ゆふべの余光が消え難いと謂つても、もうおのづから闇のいろが漂つてゐる。そのうち街は細つて来た。街の中に歩道があつて、そこに香柏樹の並木が遙か向うまで続いてゐる。香柏樹はすでに暗緑の広葉で埋つてゐる。香の高い花は遠のむかしに散つて、今は柔い青いいろの実を沢山につけてゐる。そしてアムゼル鳥の朗かなこゑは、ときどき夕の空気を顫動《せんどう》させてゐる。歩道にはところどころにベンチが据ゑてあつて、そこに人が群がつて腰をかけてゐる。老いたるも若きもみな貧しき人々である。墺太利の貨幣の為換《かはせ》相場はそのあたりはぐんぐん下つて行つた。僕はしづかなところから、ざわざわしてゐるところに来たやうな気がして少しいそぎ足で歩いた。小さい童子がちよこちよこ僕のそばに来て、をぢさん、切手持つてゐない。持つてゐたら僕に頂戴。などと云つたりした。けれども僕はさういふものにはかかはらずに歩いた。歩道はやや寂しくなつて人どほりも少い。闇のいろはおのづから濃くなつたけれども、西方の空には、まだ淡黄の光を再び絹ごしにしたやうないろが、澄み切つた蒼《あを》い空のいろにまじつて残つてゐる。
そこの歩道に、ひとりの男とひとりの女が接吻をしてゐた。
男はひよろ高く、痩せて居つて、髪は蓬々としてゐる。身には実にひどい服を纏《まと》ひゐる。うつむき加減になつて、右の手を女の左の肩のところから、それから左手は女の腰のへんをしつかりおさへて立つてゐる。口ひげが少し延びて、あをざめた顔をしてゐるのが少し見える。女はのびあがつて、両手を男の頸のところにかけて、そして接吻してゐる。女は古びた帽をかぶりゐる。それゆゑ、女の面相は想像だもすることは難い。
僕は夕闇のなかにこの光景を見て、一種異様なものに逢著したと思つた。そこで僕は、少し行過ぎてから、一たび其をかへり見た。男女は身じろぎもせずに突立つてゐる。やや行つて二たびかへりみた。男女はやはり如是《によぜ》である。僕は稍不安になつて来たけれ
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