川東岸に住んでゐたらしい。それは今の板垣氏宅の近くであつただらうといはれてゐる。川水に関し、板垣氏は乗船寺にある過去帳を調べたことがあるが、今の高桑一門の一人だといふことが分かつた。現在の町長高桑祐太郎氏の祖先といふことになるのであらうか。
新庄の俳人は風流(渋谷甚兵衛)、柳風(渋谷仁兵衛)、孤松(加藤四郎兵衛)、如流(今藤彦兵衛)、木端(小村善右衛門)等である。六月三日、天気よく、二人は新庄を立ち、一里半程行つて、本合海《もとあひかい》から乗船した。それから古口《ふるくち》で乗継し、清川を経、雁川で下船した。それから羽黒へ行つてゐる。当時は船に乗るにも一々添状を頼りにしたもので、やはり旅は難儀であつたことが分かる。
芭蕉と曾良は大石田から乗船しようと思つて、日和を待つてゐたが、最上川が増水して、なかなか船が出ない。そこで計画を変更して陸路を行くことにしたのであらう。途中|猿羽根《さばね》峠がある。眺望の利くところで、又『猿羽根山こえ舟形こえて逢ひに来たぞえ万場町に』といふ新庄ぶしのある山である。芭蕉と曾良は馬に乗つてその峠を越え、舟形をとほり、新庄に行つたものである。
芭蕉の行
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